人は誰でも自分が主人公だと思っている。
数多の文学、芸術作品、アニメ、童話
(他人から聞いた話でも良いが)
それは大なり小なり存在する事実。
しかしそれは、自らのプレーに影響を及ぼさない
完全独立的なキャラクターの存在を意味する。
そう、
プレーヤーではないキャラクター。NPCである。
それは友人、隣人、通りすがりの人かもしれない。
今日話をしたり、仕事したり、遊んだりした誰かかもしれない。
それらは、プレーヤーである自分がなんらかのアクションを起こすと
いくつかの決まった反応を示す。
その具体的プロセスはプレーヤーには予測不能のものだが、
プレーヤーが摂る選択肢に対しての反応は
相手NPCの各ステータスや潜在的プログラムにより
機械的に実行される。
無言で殴ったら、激怒され殴り返されるか、驚いた顔で非難される
はたまた、ただただ、泣かれる。
自分に対する好感度のようなパラメータが下がり、
取り巻く周囲の環境パラメーターも下がる。
被害を受けたNPCから、他のNPCへ効果が波及し
フィールドの状態が悪化する。
NPCに対しての選択肢が狭まる。
アクションに対しての反応が狭まる。
ただ、それだけの
機械的な反応に過ぎない。
NPCとはいえ、彼らにも思考がある。
命がある。
気持ちがある。
意図がある。
しかし、それはプレーヤーから観た時、NPCにしかならない。
なぜかって、プレーヤーにはNPCの「人生」というものには
関連性がないからだ。
関連性を持ち、プレーヤーのゲームプレイに影響を及ぼすそれは
”プレイアブルキャラ”とでも呼ぶべき存在。
RPGで言うところの”パーティキャラ”となる。
だがそのパーティキャラですら、
プレイヤーではない。
あくまでプレイヤーは、己ただひとり。
人生はつまるところ、孤独なのだ。
独りで生まれて来て、
何者かに設計されたこの世界で、
”親”というステータスのNPCに育てられ、
”友人”や”教師”などと関わり、育ち、
”家族”という名のパーティキャラに囲まれ、
そして独りで死んでいく。
死ぬ時は独りだ。
例外はない。
家族に看取られようが、
誰にも気付かれず床のシミになろうが、
結局のところ、
”死”というラスボスと戦うのは、己ただ独りなのだ。
言うなれば、主人公独りでしか戦闘の出来ない様な
ストーリー最後のイベントボス。
それが”死”
苦しみ、戦い、もしくはスキルを一つ使うような時間で終わる。
エンドロールは無いかもしれない。
走馬灯と呼ばれるものがソレなのかもしれない。
ただ、
エンディングは無い。
電源が落とされるだけ。
ただ、それだけ。
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