本当に、本当に久しぶりに夢を見たんだ。

真っ白な空間の中に、神が膝を抱えて座っている。
足の下にある真っ黒な穴の中に、青い球が浮かんでいる。
その球を神はいたずらに突いていたりする。

その光景を僕は遠くから眺め、その姿に漠然と憧れを感じていた。

遠くから、遠くから見ていたんだ。



どのくらいの時間が経ったのだろう。
相変わらず真っ白な空間の中で、相変わらず僕は神を見ていた。

神はなんでもできた。
思うが侭に球への思いをぶつけ。
思うが侭に球を扱い。
ときに気ままに球の魂をえぐる。

そんな神が見下ろす穴に僕が興味を持つと。
僕はブラックホールに吸い込まれるように頭からその穴に落ちた。


そこは良くできた世界だった。
陽射しは優しく、夜は穏やかで。
悲しみはなく、寂しさもない。
もちろん、恨みなんか全くなくて、みんなが幸せそうに笑いながら生活をしていた。
猫が走り回り、犬が間抜けな声を出して吠える。
きりんの首は想像以上に長く、雲を突き抜けて星を食べていた。
いまはまさに、月のうさぎが三日月に腰をかけて餅つきをサボっている。
みんなはその世界に誇りを持ち、自らの存在価値を常に感じられる生活を送っている。

あぁ、なんて素敵な世界なんだ。


僕はただただそう思って、その世界を見つめていた。




どのくらいの時間が経ったのだろう。

僕はその世界で突っ立ったまま、ふと気になったんだ。
こんなに素敵な世界なのに誰一人、神の存在には気付いていない。
素晴らしい世界、素晴らしい人たち、素晴らしい人生。
悲しみも悩みもない世界では、誰一人として神に祈るものはいなかった。
それが当然だった。




白い部屋に一人。
君は思うが侭に全てを操り。
これほど素敵な世界を創造している。



でも、君は一人。


誰が君を抱きしめるんだい。
誰が君を理解するんだい。
君の幸せはなんだい。


この世界も捨てがたいけど、


僕が戻ろう。

僕が抱こう。

僕が君を神と呼ぼう。
私が泣くのはこんなとき ブログネタ:私が泣くのはこんなとき 参加中
本文はここから

まだこのコンテンツあったんだー。

ひさびさに書いてみます。


ここ数年でやたらと涙もろくなったなぁ、と。。

人の身の上話とか、くだらないTVの再現VTRなんかでもウルむ。

家族ネタは特に駄目です。

悲しい話はもちろん、感動系にも弱い。


でも自分のことでは泣けない。
悲しいとかって感情が人より薄いんだと思う。
変な意味じゃなくて。
なんでも前向きに捉えちゃう気質なので、良いように解釈しちゃうから泣けない。
人からサプライズとかされたらちょっとウルむけど、恥ずかしいから泣かない。

で、人のことで泣く。


悲しい話のとき。
自分のことって、自分でどうにかできちゃうけど人のことって聞いてあげるしかできない。
なにかアクションをしてあげれられたとしても、結局感情まではいじれない。


感動系のとき。
自分のことって、当たり前にやってるけど、人の話ってなんかすげーその人が愛おしくなる。
この人ほーんと良い人だなーって。
この人ほーんとにすげーなーって。
まぁ、、作ってんなーこいつ。ってのはすぐにわかっちゃうので逆に興ざめですが。。
真っ直ぐな人とか、ひたむきな人とか素敵。


そんなこんなで、私が泣くのは




自分の無力さを感じたとき。



人の素晴らしさを目の当たりにしたとき。



ここ最近で涙もろくなってるのは、素晴らしい人が俺の回りに増えてるせいかもね。
なんかこの1年、プライベートだったり仕事だったり、社会情勢、生きていくことに対して色々と考えることがたくさんありました。

もどかしいことだったり、つらいことや悲しいこと、悔しいことなんてのもたくさんあって。

でも、日々すこしの楽しいことに心振るわせていて。

やっぱり俺は俺らしく、なんだって鼻で笑い、大声で笑い飛ばしてなきゃいけないな、と思う訳です。



なんとなく重たくなってしまった頭の中を一度からっぽにします。
不完全燃焼でくすぶってしまった熱を一度鎮火します。


僕の凄く大切な友人が贈ってくれた言葉。
太宰治の小説の1つの最後を締める文。


僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。
全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るくなって行ったじゃないか。
あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。
この道は、どこへつづいているのか。
それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。
蔓は答えるだろう。

「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当たるようです。」

さようなら。
*人は、脳の中で処理しえることしか
見ることも聞くことも話すことも感じることもできない。

つまり、体験するということは生きていることとイコールであるのと
同じくらいイコールに脳が働いた結果といえる。

それは誰しもが疑いようにない事実だと。


*人間の脳は日常生活で1割も使われていないなんて話もある。
1説には2%しか使われていないなんて話も。

9割はどうしたのか。
忘れたのか。
知らないのか。

赤ちゃんの頃は無限に広がっている脳の可能性も、
日常生活を送ることによって、日常生活に必要な
部分だけ使うようになるのかもしれない。

子供だけがわかることってこういうことなのかもね。


*脳内麻薬っていうのがあることは誰もが知っているだろうし、
誰もが持ちえている脳の使い方の1つだ。

ランナーズハイだったり、ナチュラルハイだったり。
臨死体験のときや、死を直前にしたとき。
人間の脳は日常生活では得られない幸福感や高揚、
もしくは恐怖の念をもたらす。

これらもまた、日常生活では使わなくなった、
もしくは日常生活では知りえなかった
脳の使い方の可能性の1つだと言える。

酔っ払ったときに高揚したり、人が変わったりすることも
同じ人間の脳みそが処理しているのであれば、
それもまたその人が持ちえている脳の使い方を発揮した結果と言える。

ある種、タガを外すとういこと。
そのきっかけとしての、体験だったり、酒だったり、
もしくはドラッグというものの類なのかもしれない。


*寝ているときにみる夢もまた、日常生活からタガをはずした状態で脳を使った結果と言える。


*神々を見た人や、心霊体験なんかも、
それがその人の脳においてリアルならば、それはその人にとっては紛れもなくリアル。


*感じるのは心だと信じたいが、
現実的には、幸せも不幸も、喜びも悲しみも、愛さえも
全ては脳がどう処理したかの結果だ。



*もう一度、話を頭に戻す。


人間は自分の脳の中で処理しえることしか体験できない。
普段1割にも満たない容量しか脳を使っていない。


普段と違った脳の使い方をする、もしくは新しい使い方に気付く、
または強制的に導かれることで普段とはまったく違った体験ができる。
言い方をかえれば、それを普段でも体験できる可能性を持ちえている。
可能性は無限で、それはイマジネーションを具現化しさえするのかもしれない。

目に入る色、心に響く言葉や音、幸せや悲しみといった感情の類も、全ては脳の処理の結果だ。

脳の使い方次第では、見えたり感じたりする世界はまるで別のものになるのかもしれない。



*もう一度。


人間は自分の脳の中で処理しえることしか体験できない。
普段1割にも満たない容量しか脳を使っていない。

その1割もみんながみんな同じ1割ではないはずで。


君と僕に見えている世界は、正確には違うものなんだろう。




*最後に、もし自分の脳を今よりもう少し自在に操れるようになったとしたら。
「曖昧でも良い、答えが出なくても良い、考えることがお前には必要なんだ。」

初めて会って間もない頃に僕はあいつに言われた。
僕は確かに物事を考えるタイプではなく、感じるタイプ。
いわゆる感覚で考えて動くタイプだった。
そこに大きな課題をなげかけて来たのがあいつだった。

「悲しみが多い程、人には優しくなれるって本当だと思うかい?」

「運命というものを信じるならば、偶然というものは存在しなくなる。君は全て必然のままに生かされているということになる。それを承知のうえかい?」

「歳をとるってことをどう思っている?」

「親友とは何だ?」

「君にとって愛って何だい?」

「お前はなんのために生まれてきたんだい?」

そんなことを目の前に提示され、僕は新しい世界を知り始める。
ここから、嘘偽りなく言葉を連ねよう。
携帯小説なんてものが氾濫しているようだけど、これはちょっと違った類いのそれになると思う。

「言葉にならなくなったときに言葉の本当の意味を知るんだよ。」
あいつはそんなことをまだ十分に頭の使い方すらわかっていない僕に前ふりもなく語る。
それも真顔でだ。

「ふだん人は脳みその中の1割も使ってないって知ってる? 新しくあとの9割、いや1分でも使い方を知ったとしたら、そこは間違いなく宇宙だ。」
なんて。

あいつと僕は僕が18の頃から少しずつ顔を合わせるようになった。
いま僕は25だから7年前くらいからの付き合いということになる。
困ったときには誰よりも早く駆けつけ、困ってないときにも誰よりもそばにいる。
うざったくも、憎めないやつだ。

出会いは突然だった。
僕が真剣に惚れた彼女と別れてからそう時間が経ってないころだったと思う。
急に目の前に現れたあいつは、

「お前はお前のことをどれくらい知っている?」

思い出してみると、あいつは出会ったときからこんなことを僕に問いかけてきていたんだ。

赤ん坊の頃、ただただ欲を表に、言葉にはできず。
それを大声で泣くことによって示す。

わーんもえーんも同じ意味。
わーんとわーんは全く違う。




幼い頃、言葉を覚えて欲を言葉にする。

それをどこでもかまわず声に出す。

まわりのことなんて考えません。
だって、したいんだもん、欲しいんだもん。

好奇心だけですよ、必要なのは。


うんこー、うんこー。




青年になり、責任をしり、恥を知る。

まわりの顔を伺っては、和をもって尊しとする。
の意味だけ履き違えて自分を抑える。

人への優しさは、つまるところ責任逃れ。
良いんじゃない、それも人だよ。なんて悟ったつもり。

ストイックな姿勢は失敗への恐れ、プライドの保持。
あいつのビックマウスがうざったくてしょうがない。




大人になり、器が広がり、腕があがる。

言いたいことをいい、やりたいことをやる。

その裏で自分に関わってくれる人のことも考える。

愛。感謝。尊敬。義理。人情。


和を持って尊しは、
手を取り合って広がることでなく、肩を組んで集まることと。


幼さゆえにできなかったこと。
力のなさゆえにできなかったこと。

自分に正直になること。
人に正直になること。


そのぶん責任を負うということ。
ソレを恐れないということ。
ソレを自ら望める仲間を持つこと。


許し許され生きていることを知ること。


少しは大人になれてきただろうか。


CHARAの『ラブラドール』

ふと、耳にして思わず「この歌なんて歌?」って聞いてしまいました。
CHARAだってことは誰の耳にも明らかですが。。
CHARAはもともと好きだったけど、この曲は久しぶりにドキっとしました。



ないもんなんてあげられるかって、すねたくもなったりするけど。

実際なんにもなくても生まれてきちゃうのがソレなわけで。

出し惜しみなんかしなくて良い。

好きなもんは好き。

真っ直ぐな気持ちは誰のものでもなく自分のもの。

その気持ちも、その気持ちを生んだ自分の心もどちらも大切にしたいんだ。

だから僕は言うよ、声高々に。



そんな感じ?


でもなんだかんだ反応を求めてるのも本音だったりするよね。

そこにまたキュンときます。。


youtubeにもあがっているので1度聞いてみては?
すぐ削除されちゃうかもだけど。


作詞作曲はRADWIMPSの野田洋次郎。

ほーんと、良い作詞しますね。


『ラブラドール』は『honey』というアルバムに収録されています。
honey(初回限定盤)(DVD付)/Chara

¥2,975
Amazon.co.jp