宋より帰国した後、京都の深草に興聖寺を建立したことにより比叡山の迫害が日に日に増してくるところから始まります。道元の危機に対して大檀那となる波多野義重が自分の領地である越前に招き永平寺を建立し理想としていた慎ましい修行生活を送るようになります。師の如浄より「国王・大臣に接触してはいけない」と遺訓を受けていましたが、波多野義重の懇願により執権である北条時頼と面会を果たしました。

永平寺建立後の暮らし向きは米が食べられないくらい貧しい時もあったのに修行と捉えるなど前向きな修行生活にただ脱帽でした。北条時頼の苦悩を救うために鎌倉に下向した際も時頼から寺や領地の寄進をきっぱり断るところも驚きでした。

鎌倉下向したあと数年後に京都で亡くなるのですが最後はストイックな修行僧から1人の人間として旅立つ準備をしているところは作者の想いが入っていたと思います。

上・中・下を通して作者の仏教感など小難しいところが多かったですが道元の伝えようとした教えはよく理解できました。現代社会でも充分に活かせる教えだとおもいます。

予断ですが永平寺を建立した波多野義重の子孫が800年以上経った現在でも永平寺筆頭檀を務められているそうです。現在でも弟子の懐奘(えじょう)が道元廟を守っているとして夜中の巡視は懐奘が回っていたとされている時間は避けているそうです。道元の功徳が現在でも伝えられている話ですよね。