羅睺羅(ラゴラ、あるいはラーフラ)は、釈尊の実子であり、密行第一と称されました。
釈尊は16歳で結婚されましたが、なかなか子宝に恵まれず、27歳になったとき妻のヤショーダラ姫との間にようやく授かったのが一人息子、羅睺羅でした。
釈尊が出家する2年前のことでした。
おそらく釈尊はこれで釈迦族の跡継ぎができたと安心されたのかもしれません。
しかしこれには異説があり、妃が身ごもられたのを知ってすぐに出家されたという説もあります。
また、羅睺羅が生まれたのはお釈迦さまがお悟りを開かれた日だったという説もあります。
そうだとすると羅睺羅は六年もの間、母の胎内にいたということになります。
「羅睺羅は顔は似ていないしお釈迦さまの息子ではない」などという不名誉な噂まで出たようです。
実際彼の顔は釈尊に似ておらずかなり不細工だったようです。
そんな噂を聞いた羅睺羅は「顔は不細工でも私の心は仏である」と言って胸を開けて見せたという。
この話は彼が信仰の対象として人気があった中国唐の時代の逸話だと言われていますが、十六羅漢信仰はその時代に生まれたものであり、十大弟子の中で只一人羅睺羅だけが十六羅漢に選ばれたことからも彼の中国での人気の程が窺われます。
出生の次第はともかく、釈尊自身が否定しているわけでもありませんから羅睺羅は間違いなく釈尊の実子なのです。
彼は父親のいないカピラ城で王子として何不自由なく素直に育てられました。
羅睺羅が九歳になった時のことです。
釈尊が久しぶりに帰城することになったのです。それを知った城の重臣たちが、幼い羅睺羅に入れ智慧をしたのです。
「お父上に頼んで、お城や財宝を息子に譲るという証文を書いてもらいなさい」という内容でした。
それは、カピラ城主の権利は事実上釈尊にあったことから教団に城を乗っ取られるのではないかと重臣達が心配したのです。
「わたしは王になろうと思います。どうぞ財産を下さい。お宝をお与えください。」と言いながらすがりつく幼い羅睺羅に釈尊はびっくりしてしまいました。
ことの重大さを知った釈尊は、舎利弗と目蓮を呼んで羅睺羅をニグローダの林に連れてゆき、羅睺羅を出家させてしまったのです。
「お前には金銀財宝ではなく、私が修行をして得た真理の仏法という財産を継がせてあげよう」と釈尊は申されたのです。
年少のころは釈尊の実子ということもあり、特別扱いを受け慢心が強く、釈尊より戒められたこともあったようです。
20歳で具足戒を受け比丘になってからは舎利弗に就いて修行を重ね不言実行を以て密行を全うし、ついには密行第一と称せられるようになったのです。
密行とは戒律を遵守し特に密教での修行を徹底することです。
そんな厳しい修行に耐え、ついに彼は阿羅漢果を得えたのです。
十六羅漢に選ばれたことなどを考えれば実に人間味あふれるドラマチックな人生を送った人だったようです。
こちらから引用しました。
仏教の話は面白い。どんな仏も煩悩と戦い、普通の人であったことを感じて、自分の仏性を意識せずにいられなくなる。