ブルースを

おもしろいもので、その後数年間ほどの記憶が自分から、ごそっと抜けている。ものの本によればあまりにデカい衝撃を心に受けると、ひととして命の危険と、脳が勝手に判断して原因を忘却するよう自動的に働くのだそうな。自分の場合、ヤツを忘れたくないという思いも同程度に強かったのか、「その後」が数年分、ごっそり抜けている。覚えているのは、彼女ができたこととわりとすぐ別れたこと、酒をのむ飲むようになったことと、ヤツの件ではじめて父親に殴りかかったこと。そして、その時の父親が歳のせいか予想以上にひ弱で、このままでは、自分が一方的にノシてしまうことになると悟ったことだった。もちろん、そんな父親の恐ろしさも自分が一番よく知っており、後日自分の寝入ったすきなどに酒の余勢をかってこっそり刃物など持ち出されても合わないのでそのときは引いておいたのだが、父親の方にもそれは伝わっていたようで、それ以降、いくら呑んでいても二度と家庭内の誰かれに、暴力をふるうようなことはなくなった。まあ、かわりに外で暴れくるようになり、それはそれでヘベレケさまを連れ戻す作業と支払いとに、母親とふたりたびたび難渋させられた記憶も、わりと残っているにはいるが。

 

自分の飲酒も、最初は過重労働からの不眠による寝酒としてのものだったように思うのだが、よくわからない。気づいたころには自分の寝起きする部屋のなか一面が酒瓶にまみれ、そこらにある封の空いたウィスキーをラッパ飲みでクチに運び、含めるだけふくんだまま、仕事に出かけたりしていた。昔の映画とかでそんなのがかっこよく見えていた記憶もあるし、どこかで「なんかもう、いいや」と思っていたような気もする。そういえば、このころ乗っていたバイクはカワサキの古めのモデル、Z250FT。なんか通販みたいなかたちで遠地から陸送してもらったバイクだったように思うが、これもあまりよく覚えていない。いち度ヤツの墓にタバコをそなえにいくときにクルマに接触されてすっころび、フロントフォークが歪んでしまって旧車ゆえに部品もみつからず、前後のタイヤを履き替えたばかりだったが、そのまま廃車となった。250㏄なのに重いうえにホイール径がでかくて車高も高いし遅いわりにはブレーキも効かないしで、あまりいいバイクだった印象もない。そうそう、TZRが良すぎて速く走れすぎるため、このまま峠道ばかりをかっとんでいてはいつか大事故につながりかねんと自重して、前時代のモデルへと逆行しての買換えをあえて選んだバイクだった。ああ、そうかそうか。遅くて乗りづらそうな古いバイクをあえて選んだのだ、遅くて乗りにくい印象で、当然だわ。

 

ギターはギブソンの黒いレスポールカスタムを追加で持った。これも経緯はしっかりと覚えていないのだが、たしか給料を5万円に上げさせることができてギターマガジン誌を購読しはじめた当時だったと思うから、そのなかの店舗広告からではなかったかと推測している。たしか1970年代の後半製あたりで当時よくあった型遅れの新古品価格となっていたものだったと記憶しているが、破格の値段で買ったこと以外、あまり覚えていない。なにしろテレキャスターカスタムの失敗(?)があるため、ハムを得意とするメーカー製のPUなら間違ってもキャンキャンうるさくないだろうという判断と、「チャボも鮎川さんも、一流どころの外人さんたちもみんな使っている」から。地元のレコード屋と楽器ショップを一店舗で兼任している店の二階の片隅に2重トビラで隔離されたホコリ臭いスタジオを試してみたり、すすめられるままに何台かの真空管アンプを購入したり知らない連中とセッションしたり、レコードも、そこらの店内ストックではもはやもの足りないため独自に取り寄せてもらって店にひと棚作ってもらったり、ギャラが上がったぶん、わりとお金はほいほいと使っていたような気がする。

 

ペペを入手したのもこのころだったろうか。幼年・少年向けの教材用として販売していたウクレレサイズのちいさいガットギターで、当時テレビのインタビュー番組などでしゃべりの苦手なキヨシローさんが間つなぎの手なぐさみにペロンペロンと弾いてたモデル。これは後年、お世話になった職場の先輩の新築祝い時にプレゼントしてしまったのだが、いまはもう絶版らしい。まあ、ちいさすぎてとても弾きやすいものではなかったが、造りも案外しっかりしていてベッドサイドギターとしてなら充分つかえたし、キヨシローさんのいない今、もう2度と手に入らないと思うと、すこしさみしいものがある。もうちょっと大きいサイズのものなら販売もしているし手元にも一本あるのだが、ぺぺ、可能なら、この歳となったいま、もういち度手元に置いて、休日にでも、ゆっくり弾いていたい。

 

気づくと、父親のおこした屋号は原材料の減少により次第に立ちいかなくなってしまい、孤軍奮戦するも「なんかもう、いいや」となって自然、家業を閉鎖することとなり、行き場を失うこととなった自分は地元をはなれ、都心部の工場地帯の、その下請け会社に単身で転がり込むことになる。手持ちはテレキャスとFTから乗り継いだカワサキのゼファー。市街ブロックの中心工場からぐんとはなされたド僻地だったが、それでも、イヤも応もなくまっとうな理由によって「家」から離れることができたし、仕送りだけ欠かさなければ文句も言ってこないはず。あとは社員寮ちかくの酒屋にフォアロゼかカティサークさえ置いてあれば、とりあえずの生活は充分だった。

下請けの孫請けのといっても、やはり日本一有名な自動車メーカーの系列である。そのギャラは、まさしく吹いて飛んだ片田舎の家内企業なんぞとは、はなから比べるべきものでさえない。なにしろ時間や勤務日数で、それまでに手にしたこともない金額の給料が計算式まで明記されてがっしりと出されてくるのである。もちろん、親元に送れるだけの金額を送ってやってもよかったのだが、当月の支払いに回りそこねた余剰ぶんは、呑むか新もの買いでもされて、無為に消えるだけに決まっている。

 

市街地に出向いてギブソンの335を買う。理由は「多くのブルースマンもチャックベリーも使っているから」。それに、さすがに上達しない腕前に我ながら嫌気がさしてきて、練習量は多い方だと思うがまだなまけているクチなのだろうか、ならばもっと高価なギターを買ってしまえばイヤでももっともっと必死になって練習するはずだ。それでだめならもう、なにやったってダメだろうという心境だった。それにセミアコなら、少しは素で弾いていても音量はある。社員寮には4トラックのMTRを持ってきてはいたが、やはりヘッドフォンは邪魔くさい。ここでテレキャス改は手放して、家に残しているレスポールと335とヤマハのアコギにペペ、それと、また叔父宅からまわってきていた古いウクレレに弦のないアコギが数本と、当時手元にあるのは335だけだったが、楽器の数自体は、なぜか着々と増えていた。

 

ちいさいころから仕事に対する姿勢だけは鍛えられているし、時間外や休出なんかもさも当然のこととしてよろこんで引き受けていたうえにバブル全盛期で待遇はうなぎ登りだし、やればやるだけ、給料ももらえる。みるみるカネはたまったが、なぜか数年もすると両親から「家に帰ってきてくれ」と頼まれた。なにがどうなってそういう話になったのかは知らないが、けっこうな金額を現金で貯めていたため、まあ、いいか、と軽い気持ちで工場を辞め、地元へと帰省した。いまにして思えば、この当時をしてもまだあの家庭環境の呪縛から、逃れ切れていなかったのかもしれない。

 

MTRには何パターンかロックやブルースのベーシックリフを録っておいて、それにあわせて適当にジャムり、雰囲気だけでも楽しみながら弾いたりしていた。偶然その音源を耳にしたことのある嫁さんはいまだに「ギターだけがペンペン鳴っている不気味なテープだった」と子供たちに話している。たしかに練習用で録り重ねなどをまったくしてはいなかったものではあったが、失礼な奴だと思う。

意味

ギターは上手くならない。それは家にいてもペペでも335でもヤマハでも同じだった。グヤトーンやらフェンダーのツイン、本編のピグノーズからチャンプやらJCの120やらとカネにあかせて買い増してはいたが、やはり基本的にどこか「筋」がないような。時間にカネ、ここまでつぎ込んでの撤退はシャクだが、どこかで踏ん切りをつけないと、このままでは趣味のためだけに、けっこうな額を散財するはめとなってしまう。どうやら自分はチャボやキースやクロッパーさんやアイクさん、またマークリーボーやマイキーのようには弾けないタイプの人間らしいし、そう割り切ってしまえば、もはや「いっぱし」になれずとも、アマチュアとしてのバンドマン、アマチュアとしてのギタープレイヤーならばまだ、いくらかやりようはあるのかも……。

 

いよいよプレイヤーとしてくじけそうになった頃、そこにやってきたのが、大ブレーク間近となっていたブルーハーツだった。

 

基本、同じバンドサウンドにしても、耳にうるさい楽曲系は好みではない。あいつから聞かされていた「ギターぎゃんぎゃんのパンクロックで云々」といった情報からああ、なるほどやかましいだけの連中なんだろうなと妙な先入観を持ってしまっていたのだが、帰省してからお付き合いしだした女の子から聞かされた「ブルーハーツ(ファースト)」と「Young & Pretty」の2枚のアルバムには正直、ああ、こりゃあやられたわと痛感させられた。気負いもテライも狙いも、なんにもない。ただただまっすぐ、メンバーそれぞれひたすらまっすぐ出来ることしかやっていない。それなのに、「言いたいこと」だけはしっかり伝えてる。しかもなんだこの「言いたいこと」は。

 

「……おまえ、意味わかっててこれ聞いてんの?」

 

そうか。これでいいんだ。

パーティ・タイム

踊れるところまではいかなかったが、ブルーハーツの流れから、パンクなんかもすこしは聞いてみたりする。英語がわからない以上、やはりライナーも読みたくなくなるほどうるさいだけにしか聞こえない連中も多かったのだが、いくつかのバンドとジョニーサンダースは、アルバムライブラリーに組み入れた。やはり音楽は、聴き手の身体を揺らせてくれるものを持っていないと、せっかくの楽曲も、少しもの足りないように感じてしまう。

 

パンク襲来と同時に、ギブソンから出ていた赤いシースルーのJrⅡスペシャルを購入する。理由はカンタン、「マーシーと同じタイプのギターでブルーハーツの曲を練習すればマーシーと同じレベルぐらいには弾けそう」な気がしたから。そうだよな。理屈じゃないから音楽なんだよ。

 

まあ、いざやってみるとマーシー、枚数をかさねるにつれてえらいこと上手くなっていくのだが。しかもいまや、R&R弾かせりゃ三宅の伸ちゃんより上になってるし。

 

ついで、エピフォンジャパンのカジノ、黄色いJrのDCモデル、色違いで出ていたJrⅡの黒を赤のスペアにどうだろうとそれぞれ順次に購入した。そう。赤いスペシャルによって、すっかりP90の出音にやられてしまったのである。ほんとうは135や初期ストーンズ時あたりにあのおふたりが使っていた330なんかが欲しかったのだが、当時すでにオールドオンリーで高かったし、335もあるしゆくゆくはアコギもいいのが欲しいからとカジノをチョイスしたところ、弦間や仕上がりなど、ちょっと造りの低いものに当たってしまう。しかしまあ、当時のジャパンカジノのクオリティでもあったしまあこんなものかなと納得してそのまま引き取り、自己流でナットの溝を切りなおしたりフレット成形しなおしたりして、335のサブぐらいの軽い気持ちで、たまーに鳴らしたりしていた。

 

このころには安スタジオのジャムメンバーでバンドらしき活動もちょいちょいやり出したりしており、メンツが固まりはじめて喜んだり、コンテストにデモとか送ってみようかと、デタラメにオリジナルの曲なんかも、ちょいちょい作り出したりしていた。まあ、ムチャだった。なにしろ片田舎の寄せ集めプレイヤーばかりである。一応メンバーとしては「田舎でも本気で音楽やってるヤツラ」というくくりではあったが、ドラムスはジャズ、リードギターはイングウェイばりのフュージョンメタル、ベースはヤザワオンリーで、サイドギターとボーカルと作詞作曲が、シンプルなロック、ブルース、R&B系でかつ、ヘタッピ君である。しかしそれでも、みんなでまとまって音が出せるというだけでも単純にうれしかった。いやあ、うれしかったなあ。

 

ヘタッピがバレないようにツインをがりがり歪ませたうえでBOSSのドライブでブースト。PUがP90だからプレイヤーとしては気持ちのいい出音だったが、おそらくいま耳にすれば、うるさいから聞きたくないと毛嫌いしていたプードレック盤のパンクバンドの、あの音質そのまんまだったことだろう。そしてこのとき、曲もあるんだし、田舎にしては何本かのゲリラライブも好評なんだから本気でデモ録りしてどこかの事務所かコンテストに送ろうじゃないかと誰がともなく言い出しはじめて、はたと気づくのである。おい。おれらでほんとに大丈夫と思うか? と。

 

もともと楽器のプレイヤー自体少ない田舎町なのにベーシストはまだちょいちょい入れ替わっているし、仮にプロになれたとして、このまとまりのない音楽性のメンバーでやっていけるのだろうかという不安と、年長者たちの、その年齢からくる「チャンスをつかんだら絶対失敗できないぞ」というプレッシャーからちょっとした気持ちのすれ違いが徐々に多くなり、ケンカにこそなりはしなかったが、少しづつ内部がぐずつきはじめてきて、自分も、4、5曲ほどはすらすらと出来たもののそれっきりあとが続かないし、次第に空中分解寸前の状態となっていって、ドラマーとふたりで公園でジャムったりしたのを最後に、きっぱりと「バンドは解散だね」となった。そして……。

 

このあと気づくのである。自分がかなりの「べっぴんさん」な、オンナ爪の持ち主であることに。

路線変更……?

地元に帰ってからはバブル期の利点のひとつであった時給の高さを利して、その当時としてはめずらしいフリーアルバイターとして稼ぎになる夜間や早朝をねらい荷下ろしやら中距離ドライバーやらをメインに数ヶ所ほど職場の掛け持ちをかさね、地方在住者としてはけっこうな稼ぎをたたき出していた。また、自分がよそに出ていた時にどういった家族会議があったのかは知らないが、父親もタクシー運転手として、遠地へと出稼ぎに出るようになっていた。当時であれば、もはや殺してやろうとの夢想もしてはいなかったが、他人の手にゆだねるぐらいならアレの息の根を止めるのは自分でありたい、ぐらいには考えていた。だからといって、地元を長期離れるわけだからたまには帰ってこいとも顔を見に来いとも見に行ってやろうとも、盆暮れはどうするかなどとも、まっっったく思考にのぼりさえしなかった。母親に、借金分と生活に足るカネさえ入れてやってりゃそれでいい。取り立ててさわぐことでもないし何故かと問いただす必要もない。自分にとってのそれなどは、その程度のことでしかなかった。

 

手のひら側からみても甲側からみても、深爪ぎりぎりまでヤスリで削り落しているにもかかわらず指先からしっかり爪の先端が確認できてしまうほどのいわゆる「オンナ爪」。なるほど指先が、指板に直角になんか当たらない。これでは、指のハラ部分でしっかり弦をホールドできないから太い弦だと押さえたい場所から弦が逃げてしまうし、また細い弦でも、その長さが運指の邪魔をして、直角に当たらないことでフレット上で弦のゆがみがどうしても生じ、微妙にピッチがズレるのだ。またアンプに通してボリュームを上げよくよく聞いてみると、わずかではあるが、巻き玄では、押弦しただけでかならずグリッサンドが鳴ってしまっている。これでは、バンドが解散してもしていなかったとしても、ギタープレイヤーとしては、プロで通用するにはいたらなかったことだろう。しかし、ここまでギター機材を集めてしまってはすべてを放りだすわけにもいかないし、プロだろうがアマチュアだろうが、音楽をやっていたい気持ちに、なんらかわりがあるわけでもない。このころ、バンドでつかうことにもなるだろうからアコギもまともに扱えたほうがいいだろうとシーガルとかいう新進メーカーのものを楽器店のすすめで購入していたのだが、当時のそれはDでもOでもなく出音が中途半端でなにか気に入らず、中古のギルドにかえてもらったりやっすい12弦を買ってみたりドブロにしてみたりと、「一生もの」となってくれそうなアコギのチョイスに大迷走していた。もちろん、有名メーカー製にくらべれば金額はそんなにもいかない程度でおさまってはいたが、それでも、本数がかさんでくれば同じことである。ほかにもリッケンのしょぼいコピーモデルや見るからにヘタっているストラトのコピーモデルなんかを在庫処分のために安くするからどうにか買ってっほしいと店に泣きつかれて購入し、ギターの基礎を教えてやっていた近所の小僧っこ達にゆずってやったりしていた。働けばカネは入る。カネは入るが、このままではよろしくもない。

 

バンドが潰れてどれほどか経ったころ、ディーンマークレーのアコギ用PUとともに、J200を買った。ついで、ヤイリでセミオーダーのD28モデルと同じくセミオーダーの、小型の赤いモデルを購入。いま、RFなんたらと名前までもらっているかわいいやつで、たしか、ヤイリ社がセミオーダーセールをやっていた時期でいくらか安くなっていたころに2本まとめて購入したはずなのだが、酒のせいか記憶不良のためか、これらもあまり詳しくは覚えていない。ただ、心機一転路線変更、もう、弾き語りならピンでいいんだからそれでいこうと、カズーやクロマチックハープ、ブルースハープの各キーまで、ぽつぽつと買い揃えはじめたのである。ローコードを省略で握り泉谷ばりにアコギでガッシガシ弾けばまだなんとかなる。曲間とかはハープソロやちょろっとしたオブリを噛ませておけばどうにかのり切れるはず。いざともなればアンプにはJCとチャンプがつかえるし、根性さえあれば、そのうちひとりで路上ライブとかもできるようになるだろう。

 

しかしそれでも、「べっぴんさん」な爪の発覚は自分なりには大きくて、子供用のおもちゃなピアノやショルキーにピアニカ、ボンゴや和楽器などその他の楽器にも触手をのばしはじめたのも、この「べっぴんさん」な爪でもプレイヤーとして「いっぱし」になれるものとかあるかいな? とすこし、弱気になりはじめていたからである。それに、やはりイチから楽曲をつくるにはピアノが弾けると非常に楽だということを身をもって知ったからでもある。

 

わざわざギブソンアコギの最高峰、J200を選んだ理由はもちろん、「キヨシローさんがこれをぶらさげて、ガッシガシやってたから」。それに、不思議とJ200でブルースをやっているミュージシャンは、洋の内外を問わず散見されないため。これはひょっとすると聞いたこともないような面白い音質効果があるんじゃないだろうかと期待した一面もあったにはあったのだが、新品ゆえの特性だったのかこの200だけがハズレで特別そうだったのか、……鳴らない。当時の言説として「弾かないときでもオーディオスピーカーなどにギターのボディを触れさせて振動をあたえておくと鳴りがよくなる」なんてものもあってJ200の特等席までつくってみたのだが、鳴らない。なあに、弾き込んでやれば弾き込んだだけそのうち鳴ってくるさと大きく構えてもいたのだが、弾けども弾けどもまったく鳴らない。板材も空間もひときわ多いジャンボボディゆえに共鳴しにくいのか造りの問題なのか、よくよくみるとネックもジョイント部まで薄く平たいものだが、はたして。

 

……結論。新品アコギの倍音にはネックの太さとジョイント部分の造りがおおいに関係している。

 

鳴りの良さはドブロ、12弦、RF、ギルド、シーガル、D28、J200の順。ドブロと12弦は別としても、その後発売されたタカミネの黒いエレアコなども試してはみたが、J200は、それほども鳴らなかったように思う。もちろん、背面ばかりで直接サウンドホールから出るプレイ音を聞いたわけではなかったのでひょっとすると前方には音圧が出ていたのかもしれないが、弾いていて、とても気持ちのいい鳴りのするギターではなかった。

 

ギターもバイクも、名前やメーカーや、サイズや値段なんかだけで、けっして測ってはいけない。

ようは

何本かのアコギとハープ、JrⅡとJCをもってひとり、スタジオ入り。なにしろカラオケ屋なんかもなかった時代で本気で曲を歌うとなるとスタジオを使うしかなかったし、スタジオに入るならアンプも鳴らした方がいいし、アンプを鳴らすのであれば自前のものを使った方がいいし、それなら、エレキも持って行った方がいい。

 

結局、持ち込むものはさほどかわらない。

 

作曲用だとか理由をつけてZO-3なんかも買ったりしながら機材だけはどんどん「いっぱし」になっていったが、「オンナ爪」問題はまったくクリアになってない。ローコードのガッシガシならばと思ってみてもそれだけでいくつものレパートリーがこなせるわけでもないし、泣きのアルペジオやブルース、ブギなんかも弾きたくなれば、とうぜん、バンドサウンドも次第に恋しくなってくる。しかしそれも、考え方ひとつなのだ。

 

「でもまあ、ようはあれだ」

 

小難しい理屈は、いらないのである。ギター弾いて踊ってさえいられれば、それでいい。聴き手なんかいようがいまいが、ヘタッピ君だろうが玄人はだしさんだろうが、そんなもん、弾いてる側の知ったことか。

 

G&Lのテレキャスターモデルを買う。R&Bからレゲエにロック、カントリーからジャズ、フュージョン。太くてまーるいいい音で、その気になればなんでもござれ。それもそのはず、エレキギターの創始者のひとり、レオさん渾身の作だってのが売りだったモデル。まあ、発売直後ぐらいにレオさん、逝っちまったけど。

 

なにをもってそう思ったのかは覚えていない。RCの解散だったかMG'sの来日だったか、はたまたストーンズの来日だったかキザイアジョーンズやクアイヤボーイズなど古き良き時代を知る次世代ミュージシャンたちの台頭だったか、それとも、あいつとの呪縛から、解き放たれた瞬間だったのか。

ジュジュカからトムウェイツ、ソーセキからヘルマンヘッセほか、それまで、いろんな曲を聴いてみたし、いろんな本も読んだ。あ、ヤベえ。こりゃヤベえ感覚だな、と思ったことも、一度や二度ではない。それと自覚したときに、ああ、これを死神とか憑き物つきとかいうんだろうかと他人事のように感じたりもして、暗い。重い。なんとかしなきゃと足掻いたり演じたりしたところでその反動の方がおおきく、さらに深い「闇」のような場所にとらわれてそこから抜け出せず、もはやその「闇」に身をうずめてさえいる自分が、そこに見えているような気さえしていた。そんな毎日が、いったい何年ほど続いたことだろう。いや、十数年ほども経っていたのだろうか。

 

そのとき、「……あれ?」という突き抜けた感が、たしかにあった。なにが理由だったのか、またどんなきっかけだったのかもまったくわからないのだが、とつぜん「あいつが見ることのできなかったもの、感じることのできなかったもの、体験することのできなかったものを、おれが見て、感じて、体験したりしていけば、もし仮に、つぎの世なんてものがあってもう一度出会うことができたとしてもいい土産話になるし、はやく死ぬ予定だったおれがかわりに見て、感じて、体験したりしていけば、あいつもおれも、生まれたことにすこしは意味が持てるんじゃないだろうか」。そんな気持ちがとつぜん、ふっと降りてきて、なんか、それさえ知ってりゃもう、全部どうでもいいんじゃねえか? といった気分になれた。

 

「 ジブンハ、ナンデウマレテキタンダロウ・・・・・・? 」

 

答えはまだ解けていない。けど、すべてのものに答えなど、そう必要ないのかもしれない。

まあ、よしとする

学歴や正社員といった自分にない社会的価値のようなものを痛切に体感させられたのは、自分にも、「守るべき家族」なんてものができてからだった。ちいさいころからあれこれと思い悩まなければならない人生だったし、読書癖も長じて宗教書物や哲学書や、自然科学に関する文献なんかも機会さえあればわりと好き嫌いなく目をとおしたりして思考の一助ともなっていたので、生物学的にも人生哲学的にも、それがなにを意味して自身どう行動すべきかは、あらかじめ、ある種の覚悟とともに自分なりには心得ていた。生意気ではあるが、彼女でも、また伴侶でも、自分のような者をどこまで見染めてくれているのか、自分の子供を産んで迷うことなく添い遂げてくれるのかどうか。それだけが、学生のころから、相棒とすべき異性の判断基準だった。もっとも、それほど機会があったわけでもないし、田舎では、卒校してしまうとその機会自体に、めったに遭遇さえしなくなってしまうわけなのだが。

 

子供ができたと聞かされた瞬間に、パッケージごとひねりつぶしてタバコは捨てた。経済的に400㏄はきつくなるだろうからとゼファーも売り、キック付きでとことこ走れ、高速走行も可能な小型のシングルモデルをさがして、ヤマハのTW200に買い替えた。ところがこのTW、のちに大ブレークしてしまいまいまたぞろカスタム熱にうなされて改造につぐ改造をほどこしてしまうのだが、まだカスタム部品自体発売されておらず、この当時はフルノーマルで通していた。

 

何本かを残し、ギターもアンプも処分した。守るべきものができても芽がでていなければその道はスッパリあきらめる。それも、学生時代から胸に決めていたことだった。

 

あ、趣味は別。

 

チョイスは自分の好みと、カネになるかならないか。一応、購入時、すこしは投機の対象になったらいいな、などといやらしいシタゴコロもあったためにいいものと判断すれば多少値がはっても躊躇せずにバンバン買い増ししたりしていたのだが、実際、残念ながらシタゴコロにかなう品は皆無だった。あれからすこしは時代のくだったいま現在であったなら、まだ少々は、いい値で引き取ってもらえたものもあったのかしらん。

 

CDの勢いが不動のものとなってプレイヤーの替え針が製造中止となった時点で大部分のレコードは処分していたし、ほしいものはすべてCD盤であらたに買いそろえた渾身の楽曲ライブラリーだっだが、やはりいち度しか聞いていないような新規お試しCDなんかも数あって、これらも、厳重に選抜したうえで処分した。カネもいるが、あらたに住人が増えるとなるとたいそうなスペースが、家に必要となる。といっても、まだ数千枚ほどは手元にあるのだが、これらだけは思い入れもあるし子らに残してあげたい「いい楽曲」ばかりなので、いまでも気の向いたときにそれとなく流したりしている。プレイヤーも何度か故障したためデッキ組みのままではカネもかかるしさすがにあきらめて、市販のコンポにかえてしまった。LDデッキは「ザンボット3」をどうしても子供たちと観たかったのでついこのあいだ、ヤフオクで程度の良いものを競り落としてDVDに落としながら一緒に鑑賞した。娘さんのほうは食い入るように観ていたが、息子さんには衝撃が強かったらしく、劇中各クライマックスのたびに、そっと目をふせていた。

 

……おまい、もう中学生だぞコラ。

 

残したギターや機材も甥っ子にゆずったり交換したり。335をエピフォンジャパンのエンペラーだったかと交換してしまったのは痛かったが、おかげでジョンレノンの生写真をもらったのでまあ、よしとしている。が、聞くところによるとジョンレノン、神奈川あたりに別荘持っててソロになってからわりと頻繁にお忍びで来日したりしており、けっこうな数の焼き増し生写真が、全国規模で出回っているとかいないとか。

 

……まあ、よしとする。

 

TWはトラッカーブームが到来してしまってカスタム部品が大量に出回るようになったころから徐々にその姿をかえていき、カウルをはずしてゼファーの丸目にステッチ付きシートにヨーロピアンウインカー、ハンドル位置さげてディスクブレーキ組み付けたあたりで、嫁さんからストップが。できれば車高を下げてヨーロピアンスタイルにまで変更し、ボアアップぐらいまではやりたかったのだが、まあ、よしとする。が、……数年後、まったく同じような仕様の225㏄モデルが当のヤマハ社から新規発売されることとなり、雑誌を手に愕然とする。

 

……まあ、よしとするほか仕方がない。

 

子供ができたら止めると決めていたのだが、禁煙は、数年も続かなかった。あいつの墓前に出向くときに、何本か火をつけなければならないから。ひと箱といっても回が増すと、さすがにあまってくる本数がもったいなく思えはじめてきて、ねえ。生物学の上からも、親父になると同時にタバコを止めるという積年のあこがれを自分から無にしてしまうという形になってはしまったが、まあ、いいんじゃないの?

よくある話で

遠地に出ている父親が見事にオンナと借金をその地で新たにこさえていることが発覚し、残された自分と母親それに、嫁さんと自分の子供たちは苗字を変更した。あたらしくオンナができたことでようやく母親もいままでのソレがどんな夫であり父親であったのかをまっとうに認識できたらしく、さすがにこのときばかりは自分の眼前で錯乱状態に陥ったりしていた。うっすらと話に聞いていたところでは、若いころはオンナ癖も相当にひどかいものだったらしく、自分が母親の胎内に宿ったとみるや当時の相手さんと別天地へ逃げ、そこでひっそりハニーな生活をしていたそうな。父親の生態を一番よく心得ている大ばあさんによってふたりとも捕縛されて引き戻されたそうだが、そのとき、もはや父親に母親との婚姻継続の意思なし、よってハラのコは堕胎すべしとの結論まで出ていたらしい。いざその段になって成長しすぎているからと病院で断られたとかなんとかで産むしかなくなってしまった成り行きが自分の存在理由であり、ああ、やはり決して望まれて生まれてきた身ではなかったんだなと、みょうに納得したのも、べつに昨日や今日のことではない。

もちろん、だからといって自分たちの生活がなにひとつ変わるわけではないのだが、そうして父親にすがっていたぶん、母親の悩乱振りはひどかった。愛だか憎だか知らないが、ひとの前では悪しざまに父親をけなして回るのに、一人にしておくと途端にごうごうと獣のうめき声よろしく大泣きに泣きだしてみたり、言われれば言われるがままに、そんな間柄となりつつも、父親のもとへと以前よりよほど頻繁に、いそいそと単身御用聞きに出向いたりしはじめたのである。その相手さんとなにごととなく言外に張り合いでもしていたのかそうした精神状態だったのかはしらないが、いい歳こいたジジイとババアの話なのである。そこにまた姉も入って自分をのぞく3人でなにやらごにょごにょと動きあっていたようだが、それと知らされもしない以上、それもまた、自分の知ったことではない。大きな出来事と言えば、家の名義が自分になったりそれにともなって税負担が重くなったり、ふたり目となる長男くんが、無事に産まれてきてくれたりしたことぐらいである。

困ったのがバブル。ハジけた損だ大損だと言っていられるのなんかは、まだ生活に直結していない側の話。そんな大手企業のお情けや地上げ関連、社長界隈の名士ごっこや偉人ごっこにもたれかかってよっかかり引っかかりしていたのは実は地方都市そのものの方で、小売店舗や商店街をも巻き添えにしてひそやかにバブル期を食いものとした大手企業の地方からの一斉撤退こそが、今にちの地方疲弊、地方衰退の最大の要因なのである。関連づいていることだからここで言ってしまうが、政治にしろ各マスコミの主張にしろ市民制度や市民団体といわれているものの活動主旨にしろ、スポンサー制度の上で成り立っているシステムは鵜呑みにすることなく、まずは最初から、疑ってかかった方がいい。人間だれしも自分に不利になるようなことは言いたくないものだが、連中はスポンサーさまのためなら、真実の歪曲どころか、ウソからマコトを平気で作り産み落とす。社会風刺暴露映画の雄とされているマイケルムーア監督も他方では、非権力側の使者であることが裏世界では当然のこととしてささやかれてさえいる。もっとも、「不都合な真実」としたタイトルは秀逸で、人間世界はそんな「不都合な真実」をひたすら隠しつつ運用することで回転しているのである。地球温暖化現象は実は「都心部温暖化現象」であり、真夏の盛りにはビルまるごと冷蔵庫にして生活し、真冬ともなればワインセラーのごとく温度も湿度も管理して過ごす。そしてその温度差はエネルギーの塊として温風化され、ビルの外にすべて排出されているわけである。ではなぜだれもそれを指摘しないのか。クーラーやヒーター、除湿器加湿器を売るものがスポンサーであり、電気を売るものがスポンサーであり、ビルを建てるのもスポンサーならば、口封じに政治屋にカネをわたすのもテレビ会社を管理運営しているのもマスコミを支えているのも、全部この、スポンサー側なのだ。誤解を承知のうえでさらに言及するのなら、ジョンレノンやボブマーリィの場合などはどうだろう。よき伝説ばかりが先行しているが、権力者側からではない方向から、ある種の助力や支援や指導など、一切なかったのだろうか? 音楽的偉業が目前となった近代ミュージシャンはなぜみな一様に黒魔術に走り、芸術界で名を成すものはなぜみな一様に薬物を好むのか。また、歴史上の偉人たちは偉人だからこそみな不慮の死をとげたのか他方、不慮の死と引き換えにすることで、万世一代の大偉業を成しているのではないだろうか。

 

真実さえ見誤らなければ、それはわりと、よくある話なのである。

想い

大手企業の末端にフリーとして職場のいくつかにまぎれ込むことでクチに糊していたわが身である。ああ、あのとき正社員へのお誘いを無碍に蹴らずふたつ返事で引き受けておけばよかったと折に触れては思わないでもないのだが、家持ちババ付き妻子持ちともなれば、転勤族となることは当然、やたらと高いハードルであることを意味している。それに身をもって、子供心にあたえる引っ越しのダメージも知っているし、嫁方の事情なども考慮しなければならない。当然、その当時の選択肢は限られていたし、そちらを選べる程度には稼げてもいたのが現実だった。

 

まさか、日本全体がこうまでコケると、バブルを知るものの一体、だれが予見できたことだろう。

 

子供や嫁さんに無理強いはしたくない。したくはないが、こう見えても各職場では信頼も厚い現場きっての腕っこきだったのである。極秘裏にアルバイト店長同盟みたいなものを全国規模で組織して待遇の改善活動をくわだてて会社側に煙たがられたのも、いまとなってはいい思い出でもあり、いい経験だ。そんな情報網も独自に作ってもいたので、企業の退転や撤退の決定はそれぞれの職場のあらゆるルートから、だれよりも早くつかむことができた。

 

方々からもたらされる情報から生活の危機を察していちはやく転職には動いていたが、もとが出向企業の時給カケモチ稼業である。衰退一途の田舎町で家計を養えるだけの求人などろくにあろうはずもなく、あったとしてもそれは自分と同じように、泥船と知ってネズミの逃げ出したあとでしかない。しかし、当地はもともと山と海しかない立地なので、逆をいえば、海か山が職場なら食うには困らないハズである。それに、親の代からのビンボー暮らしでロクすっぽ子らに残してやれるものも、まあ、音楽ぐらいしかないのだが、自然が相手の仕事であれば、海なり山なりが残してやれる……。

 

この転職が成功したと思えるほど自惚れの強い方ではないが、ビンボーながらも自分の幼少時代以上のことはふたりの子らにしてやれてきているし、これといって、大きな後悔もしていない。

ウソをつかない。まえもって宿題と時間割を済ませておく。毎晩、歯磨きはきっちりと。

 

小さいころから子らに出していたメインのお約束はそれぐらいだったのだが、上の子も下の子も、嫁さんまでが一緒になって、これが守れない。もし自分の立場にあの父親がいたら、3日ほどはもとの位置に戻ってこないほど、週に2、3回はグーで横アタマを殴り飛ばされていたことだろう。なるほどウソをついて何事もやりよいように過ごしているとラクに生きていられているような気がするものだが、そんなものは実社会において爪のアカほどの役にも立たないし、信用を堕とすだけの足かせにしかならない上に、ウソは、クセになる。ウソにウソを重ねて生きていくと必然的に、それが破綻したときには目も当てられないほどのしっぺ返しをくらうことにもなるのだが、オンナ子供にはどうしたことか、それがわからない。それに生まれのよろしくないぶん、自分はウソと芝居のプロである。だいたいのものは、見ていればわかる。わかるがよほどの悪事につながらないと判断できうる限り、なるべく気づいていない芝居をしてやっている。ことあるごとにずっとそれを言い聞かせ指導してきている、自分が悲しくなるから。

 

あとはなるべく、本人の思うように考え、思うように行動してくれたら。ならば、その善悪可否を自主的に判断できるよう手助けしてあげられたら。まあ、そんな想いを託すべく長年育てきたつもりなのだが、はたして。

 

 

※へっぽこさんのSNS初出品となる利用ホームページ「Ameba Ownd」が今季をもって急遽仕様を変更し、データ量の減少とページ枠の現象から無料公開分は縮小限定となるとのことですので、その内容だけ、まるっとこちらのブログページへと移植させていただきました。

 

まったく、困ったもんだ。

 

10/11