日々更新? ~ at the1969 ~

ここはホーム名の示します内容どおりのページではありません。まあ、当ページを著述している者のやっすいプロフィール項とでもご理解いただき、暇つぶしと、各記事に対する信憑性とかの一助にでもしていただければな、と。

いま現在はブログのように、気の向いたとき時間のあるときにだらだら書いてだらだら更新するページとしています。アメブロばかりにかまけて、最近はなかなか進んでいませんが……。



感性歴ってのかしら?

まあ、祖父を戦争でもっていかれた世代なので生まれは断然よろしくない。それでいうなら、下の、そのまた下のもう半分ぐらい下あたりだろう。朝に夕にと毎日つづく茶色い献立に戦々恐々とした陰のただよう夕食の光景。食後、TVのチャンネル権なども子供にはない時代で、酒グセの悪い親父の晩酌がてらに見ているチャンネルを家族みんなで、酔いどれた機嫌爆弾を踏まないよう内心おびえながら、ブラウン管にうつるそれをただただチラ見している程度。なにしろ、部屋がお寝間とそこしかないのだからどうにもそこにしか、身の置き場がない。しかしそれでも、父親の帰宅していない時間帯ならば見せてはもらえていたので、これもまた、親の帰宅やそれを知らせる姉からの声におびえながら盗み見るていで、なるべく気配をけどられないように小さい身体を体育座りに小さくたたみ、息をも殺して画面のまえに座っていたことを覚えている。母親、姉、もしくは、自分。だれかが父親の機嫌爆弾を踏むと熱々の味噌汁がいきなりアタマから降ってきたり、固いグーや生活備品なんかが、とき場所かまわずそこいらじゅうを舞っていた。

 

ものごころとやらが芽生えるまえから毎日がこの調子であったため、そんな自分ちの環境が異常なのではという疑問も自覚も記憶もなく、母親も、なぜかそんな父親にのめり込むようについていく生き方を当時すでに選んでいた人間だったから、まだ幼稚園にさえ通っていない自分など、爆弾の直撃をくらっても逃げ場などなく、それどころか、姉や母親から「怒らせたおまえがわるい」と追撃され、ただただ泣くしかないからメソメソと泣いていると「うっとうしいっ!」と張り飛ばされたり突き飛ばされたり。家、というやたらリアルでいてどこかゆがんでみえていた現実のなかで、自分が自分らしくあることの許される唯一の場所といえるものといえば、夜、布団のなかでようやく手に入れることのできる「空想」という、実にあやふやな、それでも、確実にひとりだけでいられる空間。そこだけが、自分の自由を手にすることのできる、ただひとつの世界だった。

テーマ

想像力の源泉といえば、当時の子供たちにとって、夕方や学校の夏休み、冬休み期などの長期休暇期間の朝によく放送されていた、数々のアニメーションが重要なファクターとなるだろう。もちろん現代にくらべ制作本数などはしれたものだったが、なにしろ何回でも再放送してくれていたうえに、それぞれが飽きのこない、いわゆる秀作ぞろいといった時代。なかでも「無敵超人ザンボット3」は当時としてもすさまじい衝撃作で、自分でお金をかせぐようになってからLD(レーザーディスクと読みますな)デッキを買ったとき、セットものでイの一番に入手したのがこの「無敵超人ザンボット3」。いわゆるロボットによる戦闘ありきの戦争ものなのだが、なにしろ時代劇のごとく勧善懲悪でパターン化されたそれまでのロボットものとは、制作意図がちがう。「ばかじゃねえの? 戦争してんのに敵だけ皆殺しで味方は無害で済むわけがないだろう。殺し合いに情緒もくそもあるか、んな子供だましの番組を作るつもりではじめたわけじゃねーんだよ」と、当時のヒーローもののお約束だった風潮に製作者側として真っ向から切り込んだ、ショッキングすぎる展開のあまりロボットアニメのなかでもなかなか語られることのない、名作中の名作。それも当然、監督も制作陣も「機動戦士ガンダム」のファーストシリーズへと引き継がれていく、いわば世相に名高い「機動戦士ガンダム」を生み出すにいたる、その原点ともいうべき作品。全編とおして重視されていくストーリーは重厚で容赦なく、「へたなオトナ」のドラマ番組など、鼻先ではじき飛ばされてしまうであろうほど。アニメーションだからこそ描けるリアルな主眼、かつまた、このチームのリアルさは戦争をして「正も邪も、双方に内在しているもの」として、その賛否も、また同志同族間での争いも、戦争自体をも、支持も不支持も言明はしていない点。いやあ、思えば、「海のトリトン」や「妖怪人間ベム」など、確たるテーマ性をもったアニメーションが、昔は実に多かった。そう、絵画も漫画もアニメも音楽でも、現代文化圏は先人にないものをとの視点ばかりに捉われすぎて、描き手がテーマを細分化しすぎるあまり、もう、テーマ性が作品ごとの支柱たりえないていたらくなのだろう。いわく、「対価も時間もかけて鑑賞はしたが、けっきょく何が言いたかったんだ?」ってな風潮となり、客離れを引き起こす一因となる。なに、ことはない。カルチャー産業界は、いまや自分たちで自分たちの首を絞めているにすぎないわけだ。創作意図なんざ、単純な方がいいに決まっている。また自分の場合、アニメや映画などのストーリーものを視聴した夜の空想として、「あの後主人公はどうなるのだろう」「続きはどうなるのだろう」といったその先々を夢に見るたぐいのものではなく、「あのとき主人公がこうしていたら、どうなっていただろう」「あのときこうしていれば、こういう続きになったはずだ」などと、かってに脚色し、脳裏で違うストーリーとして再生させて楽しんでいたように思う。そして日が昇り、また沈みはじめて家族全員が室内へとそろってしまい普段のアレが普段どおり、ふつうに再開されると、いつのころからか、決まってこう思うようになった。

 

「ジブンハ、ナンデウマレテキタンダロウ・・・・・・?」

 

重い気落ちからでも暗い発想とかからでもなく、ただただ純粋に、それが不思議に思えるという感覚だった。以降それは、まさしく影のように自分について回るようになり、その後歳を重ねたからといっても特別離れるようなことなく、いまだ背後の襟もとあたりから、薄く微笑んでいるような、どこか実態をさえ感じさせるほどクリアで、それでいてリアルな存在として、生涯かけて解かなければならないような、自分の最大のテーマとなっている。

 

 

……そういえば、「マジンガーZ」や「グレートマジンガー」、「デビルマン」などのなかでも、回によっては人種差別や争いの無常さや悲惨さ、宗教問題なんかを堂々とテーマとして取り上げているの、ご存知ですか? まあ、原作・永井豪のクレジットからしてアレな作品群ではあるのですが、ひょっとすると、そこいらあたりも、アニメーション文化草創期の名作たちが地上波では決して再放送されなくなってしまったゆえんなのではなかろうか。もちろん、言葉狩りなどの影響もあるにはあるのだろうが、作り手の魂を平気で踏みにじっていることに、気づいているのだろうか……?

音楽ってか、楽器?

はじめてのサウンド体験となると、やはり年代的に、こそこそ見ていた当時のテレビ番組。なかでも「快傑ズバット」の主人公や「ムーミン」の友人の彼、それに、「人造人間キカイダー」とかのあの連中。みなさんなぜか皮手袋をはめたまま器用にギターを弾かれる旅人たちだったが、それぞれいちように、影がある、というか、当時から、影のあるキャラ付け用として、みなさんわざわざギターを持たされていたのであろう。もっとも、ズバットさんはあのなかにご自身の変身グッズなどを仕込んでおられたわけだが、そういえばズバットさん、番組が終わると仮面ライダーV3に改造されたりアオレンジャーになったりで、あのころ大忙しでしたねえ。考えてみると、現代にまでつづく影のあるキャラの線は「機動戦士ガンダム」のシャアにまで引き継がれた時点でいよいよ完成となったように思われますが、彼は士官学校出の少佐どのという立場のためか、若いころからお酒と武器や機器操作などはたしなめど、これといって楽器類の演奏はしておりませんでしたね。ウッドベースとかピアノとか、なんか大型の楽器が似合いそうな雰囲気ですが、高官出世しながらも前線好みの転戦派ですから、やっぱり持ち運びに便のいいハーモニカあたりがマストでしょうか……?

 

そしてもうひとつの刷り込みは、ミュージックコメディの名作映画「ブルースブラザース」。当時としては数少ないコメディものの内容でもあったため土曜の夜とかにわりとよく放送されており、子供にも理解できうるストーリーでもありほかの映画はともかく、この「ブルースブラザース」だけは折あるごとになん回も、ほんと、なん回も見た記憶が。途中、声優さんがバブルガムブラザーズのトムコンコンビのご両名に変更となりはしたが、見やすさでいえば前任者方々のほうが耳なじみよく、他方、作品への熱量としては、バブルガムのおふたりの方が上だったような気がする。お気に入りは、アレサフランクリンのキッチンゴスペル「シンク」。歳くってLDでオリジナル版をはじめて視聴し、ジョンリーフッカーがどこぞの通りでストリートミュージシャンに扮してプレイしているシーンのあることを知って「テレビマンってのは音楽オンチか……!」と憤ったり。まあ、テレビ制作者に音楽オンチが多いのはおおむね間違ってはないとは思うが、同作品、全編を通してみると、意外と下ネタが多いしさすがオーバードーズで他界したベルーシィの作というべきか、ほうぼうに見られる造りの粗さが、見事にジャンキーのそれ。まあ、そういったあたりをカットかけていくとあのTV版の流れとならざるを得なかったのかもしれないが、それにしても、ほんとにジョンリーはギター一本であのジョンリーサウンドが出せるんだと思い知るとともに、アルバム同様、やはりゾワッとさせる雰囲気がある。なんかジョンリーの音って、蒼光りする冷たい刃物の独特な「におい」のような、ズルリとしたおっかないものを感じさせ、それでいて、あのスウィングでハネまくって聴き手を躍らせるわけだから、いつ聞いても目にしても、あのジジイ、やっぱすげえジジイだなと思わざるをえない。

 

しかしやはり、楽器類、とりわけギターなどともなると、片田舎のへんぴな家程度にははるかに縁遠いものと感じてはいたので、マット「ギター」マーフィもクロッパーさんもこの当時は、とくに印象には残っていない。監獄ロックあたりで顔半面にたくわえたむっさいヒゲと長めのブロンドヘアーをこれみよがしに振り散らかしながらの顔面アップからソロを決めるクロッパーさんの姿を、逆に「アメリカ人っつっても、コキタナイひとはいるんだなあ」と、なんか見下げてみていた覚えさえある。いやあ、かのお方こそがのちに知るスタックスサウンドのカナメ中のカナメ、スティーブ「大佐」クロッパーと同一人物であろうとは、「グリーンオニオン」や「ソウルマン」にやられてなにかと洋楽をあさり、ライナーなんかを調べてはどうにか音源入手して聴いたりしはじめる10代そこそこの歳となるまで、まったく気がつかなかった。ひとの印象、というか、まさしく刷り込みとは、こわいものだ。

誰かいる?

まさかウチってテレビドラマによく出てくる嘘くさいほど絵にかいたようなビンボー家族レベルなの? と自分ちの家庭の事情ってものに気づかされたのは、小学校のある市街地からかなりはずれた田園方に位置している当時の自宅であったちいさい市営住宅まで、いつものように虫取りカメとりザリガニとりなどの道草を存分に楽しみながら帰宅したある日のこと。玄関先にたむろしている何人かの背広服姿のおじさん集団とはちあわせ、帰宅した自分に「やあやあ、はじめましてだね、こんにちは。うち、誰かいる? お父さんかお母さんいないかな?」と、そのなかの誰かが当時の大人たちのかもし出していた雰囲気からは感じたこともないぐらい機嫌のいいニコニコした笑顔でそうたずねてきたので、こちらも愛想よく「見てくる!」と上機嫌で返事をして家に入って確かめたところ意外や誰もいなかったので「どこかに出かけてるみたい」とありのままに伝えてこれまた機嫌よく帰ってもらい、ならばきょうは教育テレビが見られるぞと居間にもどりカバンを降ろそうとしたところ、ややもせず、横手の押し入れがガタガタと音を立てて開き、なかから「よいしょ、よいしょ。ああ、きょうは暑いなあ」と、なに食わぬすずしい顔をして、腰を曲げながら、さもそれが当然ででもあるかのよういなかったはずの母親が、暗いそのなかから這い出てきたとき。押し入れというものは入ってみると、内側からふすまを開閉すること自体、意外な困難を要するもの。なぜわざわざそのようなところから母親が這い出てくるのだろうか。一瞬、間を必要とはしたが、それはすぐに鉛のように重く、また、じわりじわりと全身にひろがるようなすこぶる鈍い衝撃のようなものをともないながらも、幼い日の自分にさえ、それらの持つ意味や一連のつながりなど、すぐに理解できることだった。小学校もまだ低学年、しばしば半ドンで帰ってくるとよく母親がテレビで流しっ放しにしている、子供ながらにも視聴にたえない、ありえないような設定の、数さえ多いビンボードラマの主人公たち。どう見ても嘘くさいこんなたわけ話をわざわざ時間かけて流し見するぐらいなら教育テレビにかえてほしい、なんて常々思っていたのだが、まさか自分ちがまともにその端くれだったとは。嘘くさい、ニセモノ、まやかし、時間の毒とさえ感じていた、借金に追われ、殴る蹴るする酒くさい父親とそれでもなおそれにすがりつく母親に、そこに飼われるしかすべのない子供たち。よもや、昼メロのなかのみすぼらしい、ビンボー三点セットさえ呼べるようなありえないほどの家庭像が、自分ちそのものだったとは。しかも、この母親のまえにいる自分というやつは長男という身分らしいから、ゆくゆく、そのすべてをひっかぶるのはこの、自分というやつなのだと思い知る。

 

子の屈折とは、意外と単純なところからはじまるものなのであろう。

偶然、もしくは必然か

「おまえはあそこのドブ川の橋の下でひろわれてきた子じゃ!」

 

姉からはよくそう罵られ、それを契機に泣きだす自分をみて、両親は鼻で吹くように笑っていた。

 

姉は生まれつき心臓病を有しており、それこそ、生まれ落ちたその日から、いつ終わるともしれない命であるとの宣告を医者から受けながらの誕生だったらしい。まあ、いくらか話に尾ひれはついているであろうが、生まれながらの心臓病持ちであることはほんとうの話。さらには長女でもあり、家庭内外でのその待遇たるや自分みたいな泣きべしょこきの鼻垂れ者などとは雲泥の差で。親のそばにいる権利、お菓子やおもちゃ、文具や家具や衣服にいたるまで、自分は姉のおさがりを拝領して過ごしていた。さすがに学校にいくようにもなると、男子はみなパンツにリボンやフリルなどの装飾品のないものをはくものなのだと知り、母親に、これはちょっと学校でカッコ悪いので男ものを買ってくれと直訴した記憶がある。たしか、学校に行くようになってはじめて受けた、身体測定のときだった。べつだん誰に訊かれているわけでもないのに、姉のものを間違えてはいてきてしまったのだと、広くて冷たい大きな部屋のなかで、半泣きでひとりむなしく声をあららげて、違うんだ違うんだとあたりに聞こえるよう言いまわっていたと思う。しかもあとから聞いた話、姉はこの当時から小遣いをもらい、ひとり近所の駄菓子屋でふぃーばーしていたそうだ。

 

自分が駄菓子屋なるものの存在を知ったのはずいぶんあとだから手クセの悪さはそのころからのものではなかったように思うが、覚えているかぎりでは、いわゆる親の引き起こす諸般の事情とやらでなん度目かの引っ越しを経験したあたり。きょうびスリルが欲しいのYouTubeにあげたいのと妙な理屈で他人様のものを盗んだり商品に手をつけたり危害を加えたりと様々にはしゃぎまわるウスラ馬鹿が多いようだが、子供心は純粋であるぶん、動機も切実だ。駄菓子とはいえ、成長期のはじまりつつある身体にとってそれは、糖分の補給欲求である。これが次第、盗みグセにつながって犯罪となるのだが、誤解をおそれず区分けするなら、幼稚な遊びの部類ではなく、おそらく病的な精神疾患の部類に入ってくるものだろう。

 

歳をくわえるにしたがって、おもちゃ、自転車、ラジカセ、ステレオへと、いよいよ姉からのおさがりもレベルを増していく。もちろん、その都度姉はさらなるレベルの高い品々にかこまれていくわけだが、ないないづくしの子供にとっては自分専用として、モノが自由に使えるだけでもうれしいもの。もっとも、なかには拝領した時点ですでに役に立たないものなんかも多かったが、それらも自分の一存により、台所の引き出しに常備されていたペンチやドライバーなどをつかって分解され、また組みつけられては分解されをあきるぐらいにまでつづけられたあと、ようやく引導をわたされることとなっていた。つまり、小学生も高学年となれば無駄に知恵などついてきてしまい、いい加減野良遊びにもあきがきて、ドライバーとペンチと廃品の類なんかがビンボー家庭のいち男子にとって、かっこうの暇つぶし用具となっていたのである。なにしろもとから壊れているのだから、引っぱろうが引きちぎろうが、もとに戻ろうがカタチが変わろうが、べつだん誰にはばかる必要もない。思えば自分の妙な機械好きは、このころの心象風景などからきているのだろう、か?

病に負けることなく無事年頃をむかえた姉がこの当時、赤いラジカセでよく流していた曲。もちろん、すでに見かけだけはごつい灰色のステレオプレイヤーなんぞをわがものとしていたころだったから、エアチェックして手に入れたり、レコード盤を友人と貸し借りしたりしてみるみるその数を増やしていたカセット群のいち部として録音保存していた楽曲、そのひとつだったのだろうが、どうしても気になる、というか、胸に引っかかってしかたのない曲がいくつかあった。

 

そのうち、借り物や値の張るレコード盤にいたずらされてはたまらないといったところだったのだろう、姉から「ラジカセなら勝手につかってもいい」との許可が出た。実際、姉の目を盗んでわからないなりに操作して曲をかけてみようと適当にセットしたカセットテープの録音を何本か上書きして消してしまったり、レコードならばと挑戦して針をバカにしてしまったりしていたのだが、それも昔の話。それに、なん度リクエストしても曲をかけてくれなかったのは姉なのだ。そこいらあたりはさすがに姉も理解してくれていたのか、単にラジカセが不要となっていたのか、もしくは、当時あたらしく発売されはじめていたミニコンポ的な、小型でかわいいステレオに、野望をうつしていたのかはわからない。もちろん、自分への譲渡条件として出されていたものはあくまで「ラジカセ」のみの話ではあったが、もらった方としては、本体だけ手に入れて楽曲のないまま、気の済むはずがない。それに、あくまで「これをやるから下手にさわるな」という条件である。ここで深追いして譲渡相手とモメる必要はないわけで、カセット自体は両親のもとからカラオケかなにかのものを手に入れて、素知らぬ顔で上書きしながら使っていた。

 

ラジオによるエアチェックはわりと楽しかったが、当時もてはやされていた楽曲といえばアイドルに演歌、それに一部ポップスとフォーク系かその延長といったいわゆる「流行歌」の全盛期で、一応ロックとカテゴライズされて世に出ていた連中でも横浜銀蝿などのチンピラ専売ばかりで、とてもそそるものではない。やはりここは姉と一戦まじえることになろうとも、耳にも胸にもグンッときてたまらずひきつけられてしまうあの曲たちの正体をつきとめ、できうるならば入手して、はれて自分のものとなったラジカセからとっぷりと、心ゆくまで鳴らしつづけてみなければ。

 

ここで、なんの因果だったのだろう、自分にとってはのちの人生に大きくかかわる重大な転機が、たかだか赤いラジカセからながれてきたカセットテープからの楽曲によって、不意におとずれることになる。しかもそれは、楽曲の誤認という、いまとなっては信じられないような細い糸だったのにもかかわらず、しかも何故にかたぐりよせたかよせられたのかといった「縁」としかいいようのない、不思議なかたちで。

リメンバー クローバー

ああ、この歌は違う……一番最初にその「感覚」に気づいたのは小学校のとき習った名曲「グリーングリーン」。この「感覚」はあれだ、海のトリトンとかガンバのエンディングに近い。なんだろう、ひとの体温みたいなものが歌のなかにある気がする……。この「感覚」が生涯、あらゆる楽曲と向き合うときの自分の核たる判断基準となっていくのだが、大きく分けて世の中には、この「感覚」を洪水のごとくうなるほどもたらす楽曲と、まったく感じさせない楽曲との2種類がある。この2種類は非常に「いい」のだが、問題は、作り手側にその程度の認識力もない、非常に中途半端なレベルの楽曲が掃いて捨てるほど日々量産され、経済界の力学によってメディアコントロールされて「流行歌」として押し付けられ、すべての楽曲が余人のもとに届くチャンスをことごとく盗み取り、しんに世に出るべき「2種類」の楽曲ほど、ほとんど埋没の憂き目にあう。それがこの国の音楽産業の仕組みであり、それを壊されると困るオオカネモチどもがたくさんいるため、そんな産業システムの破壊者たりえる有害分子は作者はもちろん、たとえ楽曲であっても封殺されてしまう。それらがすべからく、この国のメインシステムそのものであるという悲しさ。それらをくつがえして、この耳に届いた曲。

 

楽曲自体はシンプルな作りでいて、その当時はなかった男性による高音主線で歌われ、指先、足先、腰に首と、気づくとこちらの身体を揺らさせてひとりでにリズムなんか刻ませているそれ。しかもこの、圧倒的な声の力はなんだ? 高い音程だから余計こちらの身体に入るのだろうか? そしてこの、魔法のようにとどいてくる言葉はなんなんだ……?

 

姉の居ぬまにカセットライブラリーをあさる。なん度か置き場所をかえられたが、負けずにこりずにしつこくあさる。なにしろせまい空間であり、だれがどこになにを隠そうと、家のなかなら発見は容易だ。ただ、あの時代の小学生のこと、音楽ユニットに関する知識などまったくないし、カセット自体がわりとめずらしかった当時、その収録限度時間も数十分から数時間までと種類により幅広く、都合、テープのどの部分にだれのどの曲が録音されているのかもわからない。仕方がないので放課後の姉のいない時間帯をつかって数日、片っぱしからラジカセでテープを掛けまくり、子供ながらにも地道に探していく。姉の目を盗みながらの作業でもあり、なかなか見つからない。見つからないが、あの「感覚」の正体が知りたいし、できれば我が手中にとどめてしまいたい。

 

あった! これだ! こいつらだ!

 

どれぐらいほど聞き探しを繰り返したことだろう。なかには思いっきり家族会話入りテレビ番組収録音源なんてのもいくつか出てきたが、目的はひとつ。数日かけてようやく見つけだした一本のカセットテープはよほど姉もお気に入りの楽曲だったのか、この当時若者向けに新発売されはじめていたカラフルクリアカラーの外装でいかにもオトメ受けのしそうな、おしゃれっぽい造りのそれに収められていた。そのケースの背表紙には、これまた姉のイキのいいオトメっぽさ全開の丸文字でバランスよく、「EPLP RCサクセション」と書かれていた。

AM? FM?

このころ、なん度目かの引っ越しを経験してついに姉の中学進学とともにいよいよこんどは結構な距離を越すこととなり、むずかしい年ごろをむかえているというのに姉弟ふたりしていきなり一切の友達をなくすという日常環境を強いられるに至ったのだが、弟の目には、底意地の悪いオンナ悪鬼か外道修羅の化身のごとく見えていた姉であったがどうやら世間的には見た目けっこうかわいい方らしく、酒乱と妄信狂のいりまじった両親という、子供にとって暮らしにくい住環境が育てたのであろう持ちまえの要領のよさとあいまって、存外はやい段階で、姉は新天地になじむことができていた。それにくらべて、初心者用チュートリアル程度の人づき合いの方法論さえまだまともに身についてさえいない年齢であった自分などは、さんざんであった。よかれと思って言うことやること成すこと丸ごと、すべての言動という言動がきれいに全部裏目に出る。だからといって折れたり妥協したりなどといった処世術も持ち合わせていないうえに転校生だから馬鹿にされているのだという思いから、反目してぶつかったり、ぶつけられたりもしばしばだった。なにしろチンピラ文化の全盛期である。折れるは逃げると同義であり、逃げたものはそれ以上の軋轢から解放はされるものの、いま以上の「自分」を見出す権利を、自分から放棄し、手放す行為に等しかった。泣きべしょ君は泣きべしょ君なりに、泣きながら「違う」と思うことには全力で抗い、「納得できない」ことには頑として歯向かって部屋に帰るとひとり、泣きながら暮らしていた。赤いラジカセとRC、このコンビとの出会いは小学生も高学年ぐらいのころだっただろう、リバプールやベイエリアなどの場所も言葉も知らないのに「トランジスタラジオ」の詩にだけつられて習い、わけもわからず洋モノ専門のFMラジオなんぞ聞き出して「どうやらヘビメタってのはうるさいだけの音楽らしいが、こりゃあ趣味にあわんな」などと、だれにともなくわかったようなことをひとりで言ったり感じたりしていた。AMとFMの違いなんかも使われているのが日本語か英語か程度のもので、本来どういった区分けなのかもまったくわからない。また当時、音楽業界全体の認識として真の音楽ファンは洋楽しか聞かない伝説のような風潮が支配的であり、より音質のいいFM局では曲からDJからCMにいたるまで、全部が全部、徹底したかのように横文字偏重の様相だった。しかし、AMだと歌詞はもちろんDJの言葉もわかるし聞きやすいのだが、あの「感覚」をもたらしてくれる楽曲はなぜか異様に少なく、言葉のわからないFM楽曲のほうによりそれを感じる場合が多かった。もちろん、歌詞もわからなければグループなのかソロなのか、そもそも、それが本当に英語なのかどうなのかさえも、わかってなんぞいなかった。それに、いくら聞いていてもAMではほとんどRCの曲も情報も流してくれず、そのうちエアチェックなんかよりも録音した楽曲そのものを幾度となく聞き込むほうが、より楽しくより充実した時間の過ごし方となっていくのだが、……なんか、こうして文字にしてみると、泣きびしょたれの分際でえらく生意気なガキだったんだなあと少し思う。いや、ほんと。

RC succession

ほんとうの音楽のチカラって、ほんとうはもっとすごいもんなんだぜ? ……それはあの幼いころから「ブルースブラザーズ」によって目にも耳にも、ココロにもふんだんにすりこまれている。それを「日本語」によってさらにわかりやすく具体化してくれたアルバムが、このRCの名盤「EPLP」であると、ある意味いえるのかもしれない。それぞれ楽曲の発売当時に事務所判断により演奏そのものをトラバン(スタジオミュージシャン)さん方々にとってかわられてしまったといういわくつきのシングル集であり、あれほど素晴らしい楽曲を断りもなく台なしにてリリースしやがったと、いまだにメンバー一同ご立腹の仕上がりなのだそうだが、あのアルバムの良さのひとつには、メンバーのけなすその「音のツブの軽さ」も起因していると思う。楽曲も、いわゆるお菓子ダネやパン生地なんかとおなじで、作り手側が必死になって練りに練って仕上げていくとやはり、こねればこねるにつれて、手アカにもまみれしまう。なおのこと、あの深くて鋭利な初期当時のキヨシローの調べをバンドアンサンブルによって表現しようとすれば、さらに重く色合いさえもみえないほど、真っ暗なものにしか聞こえない仕上がりにもなりかねなかっただろう。さらにいうなら、バンドと事務所の威信をかけてばんばんシングル出しする内容としてならば、耳ざわりの良さは、なおさら重要なファクターだ。あれほど深くてもろくて切なくするどい歌詞を腕達者たちが微塵のこだわりもなくちゃっちゃとやっつけで録った軽いサウンドに載せているからこそ、あの重金属の放つ鈍光のようにさえ感じる意味深い詩が、くっきりと、輪郭をともなって生きてくる。そしてまた、キヨシローさんの弾いているギターがまさしくボーカリストにしか出せないあのリズム感と間と上手、ヘタですらない「聴かせるチカラ」まる出しで、しかもそれがいたるところにちりばめられており、「うしろの軽い演奏と一緒にするな。これはオレの作ったこういう楽曲なんだ。わかるやつにだけ届けば、それでいい」と訴えかけてくる。余談になるが、キヨシローさんのここいらヘンの楽曲アレンジへのバランス能力はファーストアルバム当時からすでに発揮されてもいるわけなのだが、もはや、世に無二のものとさえ言っていい。RC解散の最終要因となってしまったアルバム「I LIKE YOU」でのコーちゃんのドラムでは重すぎるからとハチ春日に叩かせた件、ファンとしてはコーちゃんなみにショッキングな編曲判断のように思えたものだが、あらためてアルバムを聞きなおしたりしてみると、これが、初期のハードフォークグループを気取っていたころのアレンジに限りなく近いサウンドであることに気づく。たぶん、キヨシローさん(とリンコさん)の狙いは、日本ではじめてバンドサウンドなるものを構築し、またバンドサウンドたらしめていたRCの楽曲アレンジの重要な骨格であったG2、その加入以前への、RCとしての姿勢のリセットにあったのだろうと解釈できる。まあ、それを言うなら、何故G2を切ってしまったんだとなるのだが……。

アレとも出会う

この時期はほぼ、姉のカセットライブラリーとラジオからの楽曲、そしてその情報とに首ったけになっていた。比喩でもホラでもなく本当に、ラジカセひとつでひとり、せまくて薄暗い、小汚くはがれ落ちかけてる土壁造りの畳部屋でしゃかりきに踊っていたのである。もちろん、ディスコなんたらとかステップがどうのとかいう類のものではなく、ただひたすらお気に入りの曲をかけてただひたすら妙な足踏みをしながらただひたすら手足をぶらつかせて、ただひたすら、腰を左右に振りくり返すだけ。うさばらし、なんてものでもないが、ノレる曲とノレるリズムでノルだけという空間が、当時の自分にとってはたまらなく居心地のいい場所だった。

そしてこのころ、引っ越し後にようやくできたはじめての親友とともに、もうひとつ、たまらなく居心地のいい空間に出会う。その親友つながりで自分同様あまり生まれのよろしくない連中とも顔なじみとなり友人となっていくのだが、ショーケンやキョウヘイ、ユウサクあたりにあこがれて親のタバコなんか盗むようになり、廃車置き場をうろついてサビだらけのクルマで遊んだり捨ててある原付をニコイチに組み合わせて動かないか試したり、基地みたいなものを作ってめいめいが入手してくるエッチな本を回し読みしたりと、いわゆる「タムロ」しながらサロン活動よろしく箸の持ち方から人生哲学や生命学まで、それぞれがそれぞれに自然といろんな情報をもちよって交換するようになり、中学生になるころには、自分たち以外の、ほかの同級生たちのやっていることや考え方なんかが、ひどく子供じみて見えるようになっていた。もちろん、そのころのアシといえば自転車だったが、ちょうど原付界の、いわゆるリターンシフトミッション付きバイクである「カブ」タイプバイクの牙城を崩す大事件、「スクーター」が発売されて一大ムーヴメントとなっており、みな親の購入した自分ちのスクーターを持ち寄って夜中に回し乗りしたりしていたのだが、まあ、自分も手クセのよくない方ではあったが、

 

「町にこんだけあるんやもの、1台や2台なくなったってわからへんのちゃう?」

 

などという不届きな業腹ものもなかにはいて、「あいつのバイク、親にバレんやつらしいぞ」となると、みな不届きバイクの持ち主宅のほうに、足が向かいがちとなる。ここで妙なのが、それをみんなからの賞賛や人気ととらえて同じマネをするやつらが、ちょろちょろあたりから湧いて出てきてしまう。時代も時代、校内暴力の吹き荒れはじめているころであり、また田舎ながらに、当地はその一番手を切って自分も通うことになる町内唯一にして県下屈指のマンモス中学校で警察出動、中学生の大量捕縛となる大事件を引き起こし、全国ニュースでばんばん流されてしまったといういわくつきの町。そのため、警察も学校もまだヤンチャ坊あたりの対応に二の足をふんでいるころでもあり、いわば学校でも市街地でも、自分たちは、少々度のすぎる行為程度ならば、なかば黙認されて済んでいた。かてて加えて、その校内暴力の主犯はわが姉とイトコたちの集う学年一派主導によるものであり、その弟世代でもある自分たち血族一党は、学校でも街中でも、わりと危険因子視されてさえいた。しかしそれでも、あいだにいる先輩世代にはもっとひどい悪業タレがたくさんいたのだが、まあ、教師も警察も手を出しづらい連中って時点でならば、タバコ吸って夜遊びしながらガソリン盗んで誰のものとも知れないバイクを何台か確保してめいめいで好き勝手乗り回していたとあれば、充分っちゃ充分か。

ただ自分の場合、いわゆるヤンチャ組、ヤンキー一派とはすこし、趣を異にしていた。バイクにしても、たしかに乗りはじめは「自転車よりラク」だったからであるし、原付ではない数百㏄クラスのバイクへのあこがれも、当時親友から「かっこいいもの」としてその手の専門雑誌やバイク漫画などの確たる情報とともにもたらされたりもしてはいたのだが、原付スクーターとはいえ、いざ実物にまたがりアクセルを開けてみると、なんだろう、「違う自分」のような存在が「速さ」のその先にいるような気がして、どんな場所でも時間でも、遮二無二アクセルだけは開け、ひたすら「速さ」を求めていたのである。もちろん基本的に、いまでもそれは変わらない。ただ、バイクによるそれはスピードメーターの示す数字と針とのせめぎ合いとかいう単純な種類のものではなく、たとえば、いかにすればあの峠道をいまより速く走り抜けられることができるか、いかに速く市街地を抜けられるか、となりの町までいかに速く駆け抜けることができるか、などなど、あえて言葉にするとすれば「内面速度」とでもいえるような感覚のもの。もっと速くバイクを駆れるようになれば、その先に、まるで気配みたいな存在で見え隠れしているあの「違う自分」の世界に行けるかもしれない。自分にとってのそれはバイクに乗る理由のすべてであり、またそちらも、いまとほとんど変わらない。なるほどいわゆる「地元のチンピラグループ」のひとりであったかもしれないが、手クセが悪くて金もないのに粋がってタバコなんぞを吸っている以外は、音楽とバイクにしか興味のない、ひとり部屋で踊るだけの、相変わらずの泣きびしょくんという姿が、当時のほんとうの自分だった。ただ、心のなかでも外であっても、泣きわめきながらでも、嫌なものには面と向かって「嫌だ」と言っていた。それだけのことだった。

うぶ

当時のことである。ファッションに関しては短ラン長ラン、ドカンにボンタン外行きならばニッカポッカやスウェット上下に特攻ズボンといったところだったが、自分の好きな連中は、そんなものなんかだれも身につけていない。スリムなスーツにブラックジーンズ、それにやはり、モッズな細いネクタイに吊りバンドである。あの当時、ろくな情報なんかほとんどなかったのに一軒だけそういったヤンキー御用達の商品を取り入れている服屋さんが地元にもあり、ずらりと並ぶそれ系の衣服なかに1、2枚ほど、いわゆるモッズ系の商品が押され押されてなかば隠されているようにすみっこの方にはさまり込んでおり、日々の昼食(パン)代や親のサイフからちょろまかしたりカンパしてもらったりして貯めたお金でそれら衣服や新譜のレコードなんかを購入し、「なんでみんな同じようなかっこうで同じようなことして満足してんだ?」と、ヤンチャ連中のなかでもどこかはぐれている存在として、自他ともに認識されはじめていた。なにしろあのヤンキー文化一色だった当時に校内でただひとり、学生服でもわざわざぴっちりスリムを好んで愛用していたバカなど、自分ぐらいである。また、普段かぶらない制帽なんかも校章をひっぱがして市販のバッジにつけかえ、マリン帽風にしたりしたものをときおり学校までかぶっていったりもしていたし、普段着には数着の原色スーツにサテン地のピンフォールシャツなんかを着こんで、よくわかりもしていないのに、モッズやR&Bミュージシャンを気取って、いい気になっていた。そう、いい気になっていたのである。なにしろ無視してウルフカットにしたりしてすこしは伸ばしていたとはいえ、我が中学校は、男子はみな坊主アタマと決められていたのだから。だからこそ、ファッション系なんかにも、ことさら反発心を抱いていたのだと思う。……そういえば、校内の弁論大会で教師批判、学内体制批判、校則批判をぶちあげて堂々学年代表に選ばれ、数段高い壇上から、全校生徒と全教職員をまえにことさら厭味ったらしく吠えまくった記憶がある。おお、クラス中からのせられた事とはいえ、恥ずかしい。

そんな目立つ存在でもあったので、そこらでちょくちょく誰かれとなくぶつかりあったりもしていたが、いまにして思えば、あんな学生時代だったが、わりと人気者だったのかもなあと思ったりもする。先の改造マリン帽なんかも、ヤンキー組の女の子にせがまれてなかば強奪されたままかえってこなかったし、らぶれたー的なものも2月14日のちよこれいと的なものも、密やかにではあるものの、まったくもらわなかったわけでもない。男子からも、カツアゲの仕返し依頼とか借金の取り立てとか後輩が生意気だからしめてくれとか、こちらもこっそりとではあるが、わりと頼りにされていたのかもなあ、なんて、いま、あらためてうぬぼれてみたり。

 

ただそれも、あくまでいまにして思えばの話。当時の自分はどこか対外的なカベをバリアーみたいに張り巡らせてしまっており、親友やヤンキー一派のなかでもとりわけ親しい連中以外とはたいしてクチもきかず、わざわざ自分なんぞに興味をむけてくれるヤツは親友以外にはいないはず、こんな自分なんぞ、いっそどこかへ弾けとんでしまえば、よほどすっきりするだろうにと、毎日のように思っていた。ふと湧いてきてしまうそんな気持ちが抑えきれなくなると、わざわざ商店街の人ごみのなかを原付で猛スピードのまま何度も往復して走り回ったり、この田舎町の大動脈である国道の黄色い線のうえ、車道のど真ん中を「轢きさらせオラ」とばかりに、くわえタバコのまま直近すぐそばを行き交う車列のすき間を素知らぬ顔でのうのうと、家まで歩いて帰ったりしていた。う~ん、文字にしてみると、見事に迷惑きわまりない奇行児ですな。

 

ギターをはじめて手にしたりしたのは中学校入学当初ぐらいだった。叔父の家から出てきたという真っ白いヤマハのアコギを、ちょっとやってみたい気持ちもあるし捨てるぐらいならと軽い気持ちでゆずってもらい、音楽の担任に「弾き方」を聞きにいったところで、「弾けるようになるやり方」を教わったりした。つまりそのころ、まだチューニングや音階の概念がまったくなかったので、教師にしても、ドレミを覚えるころには嫌気がさしてこなくなるだろう、程度にしか考えていなかった節がある。しかしそれも道理な話で、ギターには、それぞれなん回かの挫折ポイントがあらかじめ用意されてもいたりする。あげてみるなら、①チューニングができずに断念。②ドレミが弾けずに断念。③コードが弾けずに断念。④「F」が弾けずに断念。⑤ソロが面倒くさくなって断念、といったところ。自分も、また自分につられていっしょになって放課後、音楽担当のもとに向かいはじめたなん人かの友人なども、案の定、音楽教師の想定どおり、それぞれ①~②あたりで「やめとくわ」となった。自分は①、②をクリアしたあと、もう、どうしても「曲」が弾きたくなってある日直訴したところ、「ドレミまで弾けたか? なら、あとは自分でやれ」と、たいして教えてもくれていないのに突然の免許皆伝(?)を申し付けられるにいたってしまった。しかし、これもまあ正論っちゃ正論で、基本さえものにできれば、あとは好きにプレイすればいいのが本来楽器でありギターなのである。この音楽教師は当時としてはかわったひとで、ほかのクラスでは社会や国語も担当していたと記憶しているが、現代でいうところのいわゆる絵にかいた暴力教師だったのだが、その不遜さゆえに同級の仲間内からもハブられどんどん孤立していくヤクザの息子や娘なんかを放課後、休日問わず、校舎裏に呼び出して親身になって話し込んだり海釣りなんかに誘ってうまいこと相談相手をつとめて見事に心をひらかせたり、問題校の教師としての役目を、ときに拳に包帯を巻きながらも、なみいる教職者の群れのなかでもいち番きっちり果たしていたように思う。卒業してふと学生時代を思い返したときなんかに、ひょっとするとあの先生は、荒れた当時の学校機関のひとつとして、そういう部門の専任担当官だったりしたのかもなあ、なんて考えてみたりもしていたのだが、このあいだ、息子の学芸発表会かなんかの折にひょっくり会って、まだ教師やってたのかという思いと歴代のヤンキー一派を震え上がらせていた当時の面影すらない好々爺然としたよろよろの足腰に見事に禿げ上がったまばらな白髪アタマと、常に笑みを絶やそうとしない様変わりしたかのようなその姿に、すくなからず度肝を抜かれた。ある意味、素敵な生き方だと思う。

 

ギターに関していえば、自分はたしか④でしばらくつまづいていた。後年になってそうと判明するのだが、自分はひどいオンナ爪で、ギター系のプレイヤーとしては不向きな指先を持っている。そのため、いまだに左指の爪だけは数日も置かずヤスリで削って少しでも短くなるよう努めているのだが、婦女子もうらやむほどの長い爪は、いまだまったく変化がない。ああ、毎日毎日弾きながら眠りにおちるほど練習していてもなかなか思うようにまで上達しない原因はこれだったのかと気づいてギタープレイヤーとしてプロの道はまず無理だと判断するに至るのだが、それもまた後日の話。なにしろ、スマホやタブレット端末でさえ指先を完全に寝かさないと爪があたってしまってまともに反応しないのだから、相当な美人さん向けの爪といえる。もっとも、いまでは少々のものなら省略コードと指を立てずに弾けるリックで代用してしまう方法で、個人のお楽しみ程度に多少出音がクリアでなくても、下手の横好きレベルとして平気な顔で弾いていられるほどには、ご近所への厚かましさも増している。

 

「F」を筆頭としたギターコードの習得を中断したり再開したりとつまづきつまづきしている間にも音楽熱自体は過熱の一途をたどっていて、英語教師に洋楽のスラングとかを「辞書にのってない」からと聞きに行ったりもするなど我ながら微笑ましい学生生活の一面もあったりもしたのだが、それも入学一年初頭まで。時代が時代で家庭環境が環境だっただけに「オトナの言い分はおかしい」といった方向に自然と傾倒してしまい、「あんたたちが将来かならず役に立つと証明してくれない限り、今後まともに授業を受ける気はない」と、学年主任にむけて堂々宣言したのが、中一のなかば過ぎ。全面実行に移行してすべて完了したのは、入学初年度を終える冬の終わりごろだったか。中二、中三ともなればもはや、自分は音楽とバイクと少々の読み物だけで充分やっていけるとタカをくくっていたほどだ。空想癖がつよかったためかちいさいころから読書はわりと好きなほうであったし、昼食代以外に小遣いらしきものを持ち合わせていない身としては、時間つぶしにしても知識欲からにしても、文章という文章は手にした本のあらすじや本文、解説はもちろん、巻末巻中の広告や発行日付、発行会社の住所にいたるまで、印刷されている文字と思えば、ひたすら目を通していた。いや、もう、単純に育ちが悪すぎたため、本というものは、手にしたからには読めば読むほどモトが取れるものであると考えていたのである。授業中なんかでも、算数の時間だろうと英語の時間だろうとより字数の多い国語の教科書をひろげ、走れメロスや中原中也、銀貨鉄道の夜なんかのお気に入りの章を、何度も何度も、授業科目そっちのけで、ひたすら読みふけったりしていた。おかげで小学生のころは成績なんか気にするほどのこともない程度には通信簿もテストの結果もよかったが、徹底して拒否すれば徹底して出来なくなるのもまた道理で、とりもなおさずそのころには「卒業したらバイクか自動車の整備士になろう」と思い、自分なりに整備士資格の本なんかを手に入れて、ぱらぱらと読んでみたりしていた。

 

もっとも、子供のころの夢はないものねだりの反動で、一番はやはり「おもちゃ屋さん」だった。もちろん、小さい田舎町なんかでそうそうおもちゃ屋さんの需要などあるはずもなく、また、バイクやクルマなどの機械類なんかも、当時の自分にとって、大きく見ればおもちゃの延長線上にあったものだったのだろうと言えるようにも思う。もちろん、高校進学などといった進路などはなから眼中になく、まずは自由になるためのカネがほしい。漠然とではあるが、近い将来への指針として、わりとはやくからそんなことを考えたりしていた。

暴走

夢がやぶられた、なんてほどの大きい衝撃でもなかったが、なにを思ってのことだったのだろうか、借金どころか融資なんてものに名を変えて父親が本格的に商売なんぞをはじめ、これまた、なにをどう思ってのことだったのか、おおむね、それまでの借金をまるめて一本化するためと起業融資とのからみだったのだろうとは察せられるが、商売開始と同時に、家なんか建てた。もちろん、融資融資といいように言ったところで所詮は借金の増額であり、吞ん兵衛で見栄坊のトラブルメーカーである父親がまともに計算立ててやりはじめた事業なわけがあるはずもなく、以降、日毎夜毎と減らない借金への愚痴を母親から聞かされ続け、当然それは、長男として生まれてしまった自分への、塗炭のごとく日毎夜毎とくりかえし塗り重ねられる「責任」という名の、鉛のオモリのような枷となって、母親の言葉数と同じだけ、わが身にまとわりつくこととなった。もちろん、父親が商売に色気を出し始めたころからそれとなく仕事を手伝わさせられはじめてはいたのだが、正式に屋号を持つようにもなれば、いよいよ逃げようのない2代目である。自然、稼業を手伝う時間は増えつづけ、休日や放課後なんかも次第に自分のものではなくなっていき、気づけば中学なかばで、仕入れから卸までやらされるはめとなっていた。もちろん家業である。ここにきてもギャラは一切、一円も発生していない。そして自分の就職先は進学しようがしまいが自動的に、というか、強制的に、「家」以外にはなくなってしまうこととなり、それまで、べつだん荒れていたような覚えはとくにはなかったが、やることなすこと自暴自棄となって母親の原付で夜道をかっとんだあげく、どこぞですっころんでくるほどバイクの運転が雑になったのは、このころである。

反発心は当然あったし、そろそろ世間一般というやつがわかってくるお年頃。「オトナ」ってやつはわりかし大した人間ばかりじゃないぞってのは存外はやい段階で知ってはいたが、「親」となると、反発はすれど、まだ自分にとっては絶対的な畏怖すべき存在だった。いや、逆か。畏怖すべき存在に面とむかって反発しはじめたのが、このころと言える。

 

数年ほどは授業さえも無視してまったくタッチしてこなかったし前日になっても教科書さえひらかなかったのに、存外、試験なんてものには通ってしまうもので、地元の商業科に進学となる。たしかマルバツ問題以外はバイクの名前とお気に入りのバンドやミュージシャンの名前をなんっっっの脈絡もなく書き込んでしずかに壇上の机のうえに置き、時間ごと、科目ごと、いの一番に試験会場から抜け出て人目の少なそうなあたりでタバコなんか吸ったりしていたのだが、あれ、名前さえ書いておけば、みんな通った程度の試験だったんじゃないだろうか? もちろん、受かったのなんのといったところで、やる気なんかさらさらない。よもやおもちゃ屋さんやバイク屋さんになりたいなどともすでに思ってはいなかったが、また3年間、壁とイスと机とひとの群れのなかで過ごさなければならないことにうんざりしていたし、なんでこうまで親の言いなりにならなきゃいけねんだ? といった思いが、どこかしら、痩せた腹の下の方から、わずかな熱量をもってじわじわとうごめき、確実に、音もなく湧き出しはじめていた。そしてそれは、いまだつづくそんな父親の非道徳性ともいえる思考と行動とを目の当たりにするにつけ、「アレに引導を渡すべきはひょっとして、長男たる自分の役目でもあるんじゃないだろうか」と本気で思うようになった。

 

高校生ともなればさすがに放課後はばっくれたが、土、日ともなると、それはもう「家業手伝い」ではなく「仕事」の域に達している。高校進学を境に定時制に入学した親友ともはなれている日が多くなり、部屋でギターなり音楽を聴くなりして時間をつぶそうにも、家にいればいるだけで「仕事」が来るし、陽も高いとなれば、おいそれとバイクに乗って走り回るわけにもいかない。次第にクサる日のほうが圧倒的に多くなり、自主的に授業に出ないようになって、山のうえの公園でタバコをくゆらしながらぼんやり過ごすことが日常となっていった。もちろん、高校では科目以上に大事になるらしいと知ってはいたが、出席日数など、書き付けてもいないし、いち度も計算さえしていない。入学して半年もしないほどで、高校は、無事卒校となった。

正直、お金を持ったりつかったりといった経験があまりなかっためにその価値がわからず、家業とはいえ「時間無制限、食費込みで2万円」というサラリーがどれほど搾取されているものなのかすら理解できていなかったのだが、とりあえず、はじめて自分の自由にできるまとまった金額ということだけで、学校に通うよりかははるかに「らしい」生活のように思えて、2万円といってもうれしくあった。まとまった支払い一発目は、二輪の免許と50CCギア付きバイクの名車「モンキー」。二段階取得とかがはじまっていきなり中型免許がとれなかったため小型からのステップアップ。おなじく、フェンダージャパンのセットから、黒い「テレキャスターカスタム」。一応、こいつがはじめての、自分で買ったエレキギターだった。チョイスの理由は単純で、RCの写真や映像などで、チャボが使っていたから。だが、この当時のセットものについてきていたアンプが非常に出来の悪い粗悪とさえよべるもので、当時流行りはじめていたハードロックを意識したものだったのだろうか、やたらハイばかりキンキンして下げればこもりまくるという、どうにも扱いの悪いシロモノだったのだが、初のエレキギターにして初のアンプである。ギターとの関係性や相性、メーカーごとの傾向や音楽の流行りすたりなどの理解力もまったくないままに、ギターは間違いないはずだが、この音はチャボの音ではないと、それだけの理由で、とっとと見切りをつけて早々に手放してしまった。つぎに手にはいってきたエレキギターはアリア製の、なんだかやたらミニスイッチがついていた青いモデル。これはまさしく「手にはいってきた」ギターで、当時付き合っていた彼女づてにやってきたもの。テレキャスのカスタムですらなにがどのボリュームでトグルスイッチの意味なんかもほとんど判然としていなかったのに、スイッチばかりたくさん付けられていても、そのオン・オフの場所すら、わかるわけがない。こいつは知らない間にどこかへ引き取られていっており、やっぱキースもキヨシローさんもクロッパーさんも使っているからと、先と同じフェンダージャパン製の、52年だったかのレプリカテレキャスター。これはわりとよく弾いていて、ギターとしては、はじめての「愛機」とよべるものだった。いや、なに、アンプも替えたから出音が向上しただけだったのだとは思うが、それでもノミで穴あけて、自分でフロントにハムを載せて出音を太くしてみたり。テレキャスはピックガードがでかいからなんとか見える仕上がりとなってはいたが、無知は怖い。

 

これらをぼつぼつとローンで購入し、そこに加えて姉のレコードやカセットテープ類などのライブラリーも堂々とお下がりのステレオとラジカセでダビングし、いよいよ姉の持つ全楽曲群が、自分の手中へと入ってくる。と、ここで見つけたのが「クールス」のアルバムから「ミスターハーレーダビッドソン」なる曲名。……おや? 自分はたしかにこの曲を知っているぞ? しかも、ファルセットながらキヨシローさんにそっくりなような……。

 

「……あの時さがしてたのは、案外この曲だったりしてな」

 

ほかにも、何枚かのアイドル系にまじって中島みゆきやキャロル、ブラックキャッツなどの日本のロカビリー系やロック系、フォーク系などの発掘に成功し、また、貸しレコード屋なんかもできたおかげでRCの「ビートポップス」の歌詞や音楽雑誌などを頼りに、洋楽の歴史を、確たる音源としっかりしたライナーや訳詞や解説文つきで、ぽつぽつ本格的にたどりはじめたりすることになる。

カネが入ることで回り始める時間。しかしそれも、次第に度を越えていく。父親が働かない。

 

自分の仕事振りに気を大きくしたのか予想以上にカネが入ってきていたのかは知らないが、現場にしかいないこちらとしてはたとえ吞ん兵衛のナマクラ者でもひとり分の人手が頭数からいなくなるとなれば、日々の作業を切り回していくだけで、時間など、いくらあっても足りなくなる。都合ふたり分の仕事量をひとりでこなそうとすると、単純に、倍の作業スピードか、倍の時間が必要となるわけで。絶対権力者であり家庭の覇者でもある父親から強制的に「2代目」を宣告されている身としては、苦情もあれど、日々の生活が先である。いつしか自分の就労時間は、日の出前から日付がかわるまでになっていた。さすがに、これで2万円はない。せめて給料だけは上げろと母親にせまってはみたが、それでも3万円にしかならなかった。もはやギターを弾くどころではなかったが、現場まではバイクで通っていられたのでまだ満足はしていたのだが、どうにか時間をやりくりして中型免許を取ったころに「モンキー」が潰れ、姉のツテで安くしてもらえた当時最新のヤマハ製TZR250に、バイクが代替わりする。本文でもふれてはいるが、なにくれといじりすぎて潰れたバイクの筆頭がこの「モンキー」で、Fフォークを正立に交換してディスクブレーキを組み、セパハンにカットしたツッパリテールとダウンマフラーに独立丸目にタコメーターを追加して万全のZⅡ仕様にキャブもかえてファンネルつけて等々、車両本体の数倍ほど、カスタムパーツ代に追金しまくったあげくのことだった。マシンというものを愛していたと胸を張っていえる、一番最初の機体だった。この「モンキー」、その後もしばらくは飾りとして手元に残しておいたのだが、なん年か後に工業高校生だというふたりの少年が「むかしからあこがれていたバイクなんです。自分たちでレストア(再生修理)するので……」と、是非にもゆずってほしいと申し出てきてくれたので、不動ものでよければと念押しだけして、ナンバーとスペアキー以外は、一切を渡してやった。工業高校生ならばとも思ってのことだったが、しかしその後、動いているところは見ていないし、是が非でも彼らを追わなければならないいわれもない。残念ながら、初代の愛機とはそれっきりとなった。写真もフィルムに現像にと高価だった時代ではあるが、せめてもう少し形にして残しておけばよかったと、手放した数々のギターたちともども、いまだ壁に貼り付けてあるナンバーや色褪せた数枚の写真をみるたびに、ちょっとさみしく思い出したりしている。

 

このころになると姉が巣立ちの準備、いわゆる彼氏とふたり本気で将来の話なんか詰めはじめたりするわけなのだが、ここで両親は徹底した妨害工作を打ちつづけ、いや、お年頃、もう、中学生になったぐらいから打ちまくって何度も姉の恋路を踏みにじり、反発する姉をさらに叩きのめすがごとく、ときには階段から蹴り落としたりオシャレにまとめてた髪をひっつかみ、ハサミで刻んだりしていた。愛情が転じてなんとやらとはよく聞く話だが、父親の場合は常からがそれで、仲良くなった相手ともアルコール越しに話なんかしていると、途端に攻撃的になってエモノを手に実際に攻撃しだし、うちから血だるまで帰る親せき筋の姿なんかも、ちいさいころから、わりとよくみかけていた。さすがにひと様の子息を直接手にかけることはなかったが、そのぶん、本人である姉と、まったく無関係なのになぜか学校の担任教師などは、ちょいちょい標的となっていた。そんな姉も、いつのまにやら筋力も体格も言うことも、回ってくるカネも、徐々に人並みになってきていた自分にどこかすがる部分があったのだろう、そんな両親に対する愚痴をこっそり自分にこぼしにくるようになったり、彼氏との電話をつないでほしいと頼んできたりしはじめ、相対的に、自分に対して、すこし優しくなっていた。このころには自分も父親に対してすこしは余裕がではじめていて、「アレを合法的に殺す方法としては……」などと、物騒ではあるかもしれないが、心理的にそんな父親とも立場の逆転がはじまっているともいえるような、ひそやかな反逆にも似た絶対主の抹殺という、ある意味、甘美ともいえる夢物語を浅くわずかな眠りなかで、夜な夜なつむぐようになっていた。

 

自分と違いちゃんと定時制に通っている親友はどこからか中古の「ポッケ」を手に入れており、よくふたりで日帰りツーリングと称して2台で遠方の町や山越えして他県まで遠乗りして、お互いそれなりに、バイクライフをエンジョイしていた。大、中型どころか原付までもヘルメット着用となったのはこのころの話で、それでも二人、「バイクでなんか死んだら、乗ってるバイクに悪い」と意見は一致していて、お互い原付ながらも、誰かからのお下がりを黒塗りしておそろいにしたフルフェイスを、わりと気に入ってかぶっていた。それに、ヒネてよじれて歪みまくっていた自分とちがい、親友には彼女もできてその関係も良好でしっかり長続きしており、恋仲が進むにつれ「オンナもいるのに、バイクで死ぬぐらいなら乗らんわ」とさえ言っていた。ちなみに、自分にバイクのなんたるやを説いて教えてそれがきっかけとなって長年つるむようにさえなり、どうせ買うのならと黒いフェンダーをすすめてくれたのは誰あろうこの、無二の親友である。理由はもちろん、「チャボが使っているから」。ちょうどRCが「KING of LIVE」の一大プロモーションに打って出ていたころで、新もの好きだった父親がどこからか買ってきたビデオデッキとプロジェクター(!)で、市販されていた各バンドの映像なんかをビデオ購入して、その周辺で作業するときなどにRCはもちろん、「ブルースブラザーズ」や録画した「R&Rバンドスタンド」、「ヘルプ」や「憂歌団」なんかを流しっぱなしにして、ふたりとも折にふれては、そこでよく観ていたのである。

第一報

どちらかといえば親友はヤンキーっ気が強く、はた目にもそれとわかるファッションや生き方なんかを、自分から選んでいたように思う。「ポッケ」のつぎに入手したバイクはCBの750Fモデルだったが、これがまた、その筋の先輩によるツテでほとんどタダ同然でもらったという由来の示すとおり、お世辞にも上手とは言えない自家塗装によって真っピンクに塗り上げられた見事な族車仕様で、セパハンにバックステップ、小型の装備品にノーマル風カラーとヨーロピアンスタイルを好んでいた自分としては「へえ。いいんじゃないの?」と言ってはおいたが、改造の仕上がりも雑だし、手を入れていけばなんとかなるかなと思いはしたが、正直、750㏄とはいえ自分の趣味の範囲を超えている、非常にダサいものだった。しかしそれも、本人が気に入っていればいいだけの話であり、そのスタイルに、とくにあれこれと注文をつけるということもしなかった。しなかったが……本人も、いざ実車を引き取ってみてさすがに雑なバイクだと思ったのだろう、我が家へも、あまりそちらでは乗ってこず、あいかわらず「ポッケ」とTZで遊びまわることが多かった。しかし、そのCBを手に入れたことでヤンキーっ気が燃え上がってしまったのか次第にノーヘルでいることが多くなり、その都度、「またおまえ、メットかぶれよ」と、くどくどと小姑く文句をつけたりしていた。その後、あまりにうるさく言いすぎたのか仕事を辞めた矢先だったために自分との持ち時間のズレが生じてきたためだったのか、それとも、「ブルーハーツって連中の曲がいいらしいぞ」ともってきた情報をふたりでなかなか調べられなかったためだったのか、ヤツの足が、うちから少し遠くなっていった。仕事探してんのか見つかったのか、それとも、彼女のところへ行ってんのかほかの連中とCBに乗ってんのか、まあ、中学も卒業するとこんなもんなのかなあ、と少し、気にしだした矢先だった。ヤツが死ぬ。

ぼんやり

消防署前。誰かのバイクのケツに乗っていて、絵にかいたように右直にすくわれて飛んだらしい。ノーヘルで脳挫傷。病院の救急でひと晩はまだイキモノとして機能はしていた。真夏の夜。待合に次第次第、久しく集ってくる悪友どもの顔。言葉は少なかったが、そんなものだろう。そこへなぜか自分の両親が登場し、病室から出てくるや否やうなだれているみなの目のまえで「ありゃあ死ぬど。もつものかよ」と酒臭い息で吠え、すたすたと帰っていった。自分はもう、ぼんやりしていた。なるほど生きてはいけても、動けはしないだろう。ベッドに置かれているパイプだらけのヤツの身体と生気の消え失せたふたつの目は、誰しもにさえ雄弁に、それを語っていた。朝がきても不快なほど湿気のまとわりつく、やたら蒸し暑い夏の夜だった。容体急変。駆けつけてみれば延命装置を外すところだった。「規則により……」「どうぞ」。ヤツの親父さんの落ち着いたひとことで、光りが消えた。

 

ぼんやりは出棺の直前までつづいた。ああ、最後だと思ったら、ようやく涙が出てきた。しかし今度は止まらなくなった。どうにも抑えきれず泣きじゃくるうちに痙攣をおこして倒れてしまい、出棺の場から、どこか別の家へと連れ出されてしまい介助されてしまった。なので、あいつのドアが閉まる瞬間は、残念ながら、見ていない。

 

18歳で死ぬ。ある意味、それは自分の目標だった。このまま歳食ってまで生きていたくないと本気で思っていた。

 

あいつと話し合ったことのあるそれは自分の目標で、あいつはちゃんと歳をとり、見たり聞いたり、自分の子や孫を、あやしたり抱いてみたりしたがっていた。

 

生きるということを、楽しみにしていた。

 

「 ジブンハ、ナンデウマレテキタンダロウ・・・・・・? 」

 

活気であふれていた細いあの長屋通りもいまはもうないし、隠されるように通りの裏手に置かれていたあいつのCBも、いつの間にか、どこかへ消えていた。おふくろさんは文字通り後を追うようにみるみる衰弱してそのまま逝ってしまったし、親父さんの行方も、いつしか風の頼りにも聞こえなくなってしまった。あのときケンカになってでも、もっとクチ酸っぱく、メットをかぶれと忠告していたら。もっと一緒になって遊びまわり、そのついでに仕事先なんかも一緒にさがしてやったりしていたら。後悔なんてものはいつも、取り返しがつかなくなってはじめて、骨身に沁みてくるものなのだ。

 

 

 

 

※へっぽこさんのSNS初出品となる利用ホームページ「Ameba Ownd」が今季をもって急遽仕様を変更し、データ量の減少とページ枠の現象から無料公開分は縮小限定となるとのことですので、その内容だけ、まるっとこちらのブログページへと移植させていただきました。

 

まったく、困ったもんだ。

 

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