俺はアウトサイダー大林だ。
さっき、a子、という独特の世界観をかもしだす女性アーティストの音楽を聴いていて、ふと昔観た、猿の惑星、というSF映画の洋画作品のラストシーンを何故か思い出した。
この、猿の惑星、という映画のラストシーンは世界映画史に残ると言われているぐらいの衝撃のラストで、もちろん俺の記憶にもしっかりと焼き付いている。
おそらく俺が今まで観てきた映画のラストシーンの中でも、五本の指、あるいは三本の指に入るかもしれない、それぐらいに俺の心の中に強烈な印象として残っている。
で、猿の惑星、のことを考えていたら、唐突に、村上龍、という作家が昔ベストセラーにした、コインロッカーベイビーズ、という小説のラストシーンを思い出した。
この小説のラストシーンは、俺的に日本文学史に残る名ラストシーンだと思っている。
猿の惑星、のラストシーンも凄かったが、文学作品でのこの、コインロッカーベイビーズ、ほどの衝撃的なラストシーンを俺はちょっと知らない。
俺は三十代中盤あたりになるまで小説をかなり大量に読み込んでいたけれど、コインロッカーベイビーズ、みたいに涙が出そうになるくらいカッチョいいラストシーンのある文学作品、というのには、そうそう出会えなかった記憶がある。
この、コインロッカーベイビーズ、という小説、若い人にもオススメである。
とにかくめちゃくちゃにカッチョいい文学作品だから。
村上龍、がまだ二十代の頃に書き上げた、彼の若き日の絶唱、である。
是非、読んでみて。
あと、村上龍作品、でもう一作挙げるとしたら、五分後の世界、という彼のSF作品。
この作品はストーリーももちろん凄く面白いのだが、なんと言っても、村上龍、の文章におけるテクニックとパワー、がいかんなく発揮されている作品で、読み応えがハンパなく、読後の充足感や陶酔感もハンパなかった。
そしてそして、村上龍、の、コインロッカーベイビーズ、と同様、俺に、そのラストシーンで忘れられない衝撃を与えた記憶に残っている文学作品をもう一つ。
島本理生、という女流作家の恋愛小説、ナラタージュ。
この作品に出会ったのは多分、俺が三十代後半の頃だったと思う。
当時通っていたガールズバーの店員の女の子にススメられて読んだ記憶がある。
思いっきりラブストーリーだったので、コインロッカーベイビーズ、のようにカッコイイとかではなかったが、この作品のラストシーン、なんともせつなかった。
こういう、人の想い方、というのもあるんだな、と思った。
この作品も、島本理生、がまだ二十代の頃に書いたもののはずなんだけど。
村上龍、と同じく、島本理生、若き日の絶唱。
俺が今までに一番読み込んだ作家というのはおそらく、村上春樹、か、村山由佳、だと思うのだが、村上春樹、の作品はなんといっても、恋愛小説、ノルウェイの森。
彼の他の作品も素晴らしいものばかりなのだが、俺はどうしてもこの作品を思い出してしまう。
この、ノルウェイの森、という作品はもはや、俺の人生の一部、のようになってしまっている。
この作品を初めて読んだのは忘れもしない、俺がまだ十八の時だった。
俺の青春の記憶。
女の子への憧れ、恋への強烈な憧れ。
十八歳だった当時の俺は、この作品に魂を根こそぎ持っていかれた。
村山由佳、の方は実は彼女の作品をむさぼるように読んでいたのは俺が三十代前半の頃だったんだ。
村山由佳、の文学作品で今でもしっかりと印象に残っていることは、その文章表現の鮮やかさ、のようなものだ。
鮮烈、とか、ビビッド、とか、とにかくその文章による表現が鮮やかすぎるぐらいに鮮やかで、カッコイイとか、せつないとか、とはまた違う、まるで南国のとてつもなくエメラルドなグリーンに染まっている海洋が目に飛び込んできて眼球の奥にそれが焼き付いてしまうような、鮮烈な文章表現。
特に、美少女、を文章で表現させたら、彼女の右に出る者はいないんじゃないか、って思った。
彼女の作品では、BAD KIDS、海を抱く、の二作品が印象に残っている。
素敵な作家さんだ。
映画や文学、音楽は人生を豊かにしてくれる。
もしこういった芸術に触れていなかったら、俺の青春は灰色のそれになってしまっていたに違いない。
俺は十代、二十代、三十代、を芸術作品にどっぷりと浸ることで自分の人生も内面も充実させていき、四十代で実人生における青春時代を体感した。
俺の四十代は、恋の季節だった。
女の子に憧れ、恋に憧れ、勇気をふりしぼって女の子達にトライしていった。
上手くいかないことばかりだったが、二十代や三十代で、女の子に冷たくされたり邪険に扱われたり嫌われたり、そしてフラれたりすることへの免疫というのがある程度出来ていたので、四十代はそのようなことにはヘコタレることなく、恋に破れたとしてもまたすぐに気力がみなぎってきて、次の恋に向かっていくことが出来た。
ただ一回一回の恋に真剣に手を抜かず、最後までやりきった。
勇気を出して始めて、ちゃんと終わらせて来た。
いまだに終わっていないのは、副島美羽、への恋心だ。
彼女とは一度は終わったかに見えた。
俺は他の女の子に夢中になり、彼女も他に彼氏を作ったりしていた。
でもな、俺はどうしても彼女のことを、副島美羽、のことを忘れることが出来なかったんだ。
俺が、副島、をあきらめたあの夜の、その翌日、JR大阪駅南口で俺の姿を見つけた、副島、が俺に駆け寄ろうとしてきて、俺の拒絶の態度に萎縮してしまい駆け寄ろうとした足を止めてしまった、あの時の太陽の光の逆光を背に受けてたたずんでいた可哀想な、副島美羽。
記憶の中の彼女はその日、クマだかライオンだかよくわからない動物の顔のアップがプリントされたニットだかスウェットを着ていて、俺はダサいなあ〜、って思ってた。笑。
その時の彼女の記憶が今になって、愛おしい。
あの時、まぶしい光の中に立ちすくみ、少女のようなあどけない表情を浮かべていた、逆光の中の美しい女の子。
あの時の彼女のこと、俺は一生忘れられないだろう。
俺はここにきて生まれ変わった。
俺を力づくで押さえつけようとして、嫌がらせ行為やイジメ行為を仕掛けてくる連中に対して、こちらも力づくで撃退していけるようになった。
これからの俺は今までのように、世の中からの自分へのイジメや嫌がらせに気力を奪われてしまうことはなくなった。
これからは、書くことに集中していける!
大切な人達を愛し、文章を書くことに、人生を捧げていきたい。
スウィートベイベー、おやすみ。
さっき、a子、という独特の世界観をかもしだす女性アーティストの音楽を聴いていて、ふと昔観た、猿の惑星、というSF映画の洋画作品のラストシーンを何故か思い出した。
この、猿の惑星、という映画のラストシーンは世界映画史に残ると言われているぐらいの衝撃のラストで、もちろん俺の記憶にもしっかりと焼き付いている。
おそらく俺が今まで観てきた映画のラストシーンの中でも、五本の指、あるいは三本の指に入るかもしれない、それぐらいに俺の心の中に強烈な印象として残っている。
で、猿の惑星、のことを考えていたら、唐突に、村上龍、という作家が昔ベストセラーにした、コインロッカーベイビーズ、という小説のラストシーンを思い出した。
この小説のラストシーンは、俺的に日本文学史に残る名ラストシーンだと思っている。
猿の惑星、のラストシーンも凄かったが、文学作品でのこの、コインロッカーベイビーズ、ほどの衝撃的なラストシーンを俺はちょっと知らない。
俺は三十代中盤あたりになるまで小説をかなり大量に読み込んでいたけれど、コインロッカーベイビーズ、みたいに涙が出そうになるくらいカッチョいいラストシーンのある文学作品、というのには、そうそう出会えなかった記憶がある。
この、コインロッカーベイビーズ、という小説、若い人にもオススメである。
とにかくめちゃくちゃにカッチョいい文学作品だから。
村上龍、がまだ二十代の頃に書き上げた、彼の若き日の絶唱、である。
是非、読んでみて。
あと、村上龍作品、でもう一作挙げるとしたら、五分後の世界、という彼のSF作品。
この作品はストーリーももちろん凄く面白いのだが、なんと言っても、村上龍、の文章におけるテクニックとパワー、がいかんなく発揮されている作品で、読み応えがハンパなく、読後の充足感や陶酔感もハンパなかった。
そしてそして、村上龍、の、コインロッカーベイビーズ、と同様、俺に、そのラストシーンで忘れられない衝撃を与えた記憶に残っている文学作品をもう一つ。
島本理生、という女流作家の恋愛小説、ナラタージュ。
この作品に出会ったのは多分、俺が三十代後半の頃だったと思う。
当時通っていたガールズバーの店員の女の子にススメられて読んだ記憶がある。
思いっきりラブストーリーだったので、コインロッカーベイビーズ、のようにカッコイイとかではなかったが、この作品のラストシーン、なんともせつなかった。
こういう、人の想い方、というのもあるんだな、と思った。
この作品も、島本理生、がまだ二十代の頃に書いたもののはずなんだけど。
村上龍、と同じく、島本理生、若き日の絶唱。
俺が今までに一番読み込んだ作家というのはおそらく、村上春樹、か、村山由佳、だと思うのだが、村上春樹、の作品はなんといっても、恋愛小説、ノルウェイの森。
彼の他の作品も素晴らしいものばかりなのだが、俺はどうしてもこの作品を思い出してしまう。
この、ノルウェイの森、という作品はもはや、俺の人生の一部、のようになってしまっている。
この作品を初めて読んだのは忘れもしない、俺がまだ十八の時だった。
俺の青春の記憶。
女の子への憧れ、恋への強烈な憧れ。
十八歳だった当時の俺は、この作品に魂を根こそぎ持っていかれた。
村山由佳、の方は実は彼女の作品をむさぼるように読んでいたのは俺が三十代前半の頃だったんだ。
村山由佳、の文学作品で今でもしっかりと印象に残っていることは、その文章表現の鮮やかさ、のようなものだ。
鮮烈、とか、ビビッド、とか、とにかくその文章による表現が鮮やかすぎるぐらいに鮮やかで、カッコイイとか、せつないとか、とはまた違う、まるで南国のとてつもなくエメラルドなグリーンに染まっている海洋が目に飛び込んできて眼球の奥にそれが焼き付いてしまうような、鮮烈な文章表現。
特に、美少女、を文章で表現させたら、彼女の右に出る者はいないんじゃないか、って思った。
彼女の作品では、BAD KIDS、海を抱く、の二作品が印象に残っている。
素敵な作家さんだ。
映画や文学、音楽は人生を豊かにしてくれる。
もしこういった芸術に触れていなかったら、俺の青春は灰色のそれになってしまっていたに違いない。
俺は十代、二十代、三十代、を芸術作品にどっぷりと浸ることで自分の人生も内面も充実させていき、四十代で実人生における青春時代を体感した。
俺の四十代は、恋の季節だった。
女の子に憧れ、恋に憧れ、勇気をふりしぼって女の子達にトライしていった。
上手くいかないことばかりだったが、二十代や三十代で、女の子に冷たくされたり邪険に扱われたり嫌われたり、そしてフラれたりすることへの免疫というのがある程度出来ていたので、四十代はそのようなことにはヘコタレることなく、恋に破れたとしてもまたすぐに気力がみなぎってきて、次の恋に向かっていくことが出来た。
ただ一回一回の恋に真剣に手を抜かず、最後までやりきった。
勇気を出して始めて、ちゃんと終わらせて来た。
いまだに終わっていないのは、副島美羽、への恋心だ。
彼女とは一度は終わったかに見えた。
俺は他の女の子に夢中になり、彼女も他に彼氏を作ったりしていた。
でもな、俺はどうしても彼女のことを、副島美羽、のことを忘れることが出来なかったんだ。
俺が、副島、をあきらめたあの夜の、その翌日、JR大阪駅南口で俺の姿を見つけた、副島、が俺に駆け寄ろうとしてきて、俺の拒絶の態度に萎縮してしまい駆け寄ろうとした足を止めてしまった、あの時の太陽の光の逆光を背に受けてたたずんでいた可哀想な、副島美羽。
記憶の中の彼女はその日、クマだかライオンだかよくわからない動物の顔のアップがプリントされたニットだかスウェットを着ていて、俺はダサいなあ〜、って思ってた。笑。
その時の彼女の記憶が今になって、愛おしい。
あの時、まぶしい光の中に立ちすくみ、少女のようなあどけない表情を浮かべていた、逆光の中の美しい女の子。
あの時の彼女のこと、俺は一生忘れられないだろう。
俺はここにきて生まれ変わった。
俺を力づくで押さえつけようとして、嫌がらせ行為やイジメ行為を仕掛けてくる連中に対して、こちらも力づくで撃退していけるようになった。
これからの俺は今までのように、世の中からの自分へのイジメや嫌がらせに気力を奪われてしまうことはなくなった。
これからは、書くことに集中していける!
大切な人達を愛し、文章を書くことに、人生を捧げていきたい。
スウィートベイベー、おやすみ。