今日は「怒り」について学びました
あらゆる感情には意味があり、怒りも感情の一つ
怒りは心の痛覚のようなもの
心が被害を受けて、何らかの対処が必要だと教えてくれる
怒りを感じることは悪いことではなく、痛みの原因に気づくチャンスを与えてくれるもの
怒りに振り回されず、怒りを本来の役割通り「対処すべき問題のサイン」として活用するためには、まず怒りの感情をそのまま受け入れる必要がある
「あんなことを言われたのだから怒るのも当然。それにしても大変な目にあったね」と自分に優しくしてあげる。
怒り続けることは、自分への被害が続いてしまうこと。
そして、怒りの原因を探る
自分は本当に被害に遭っているのか、それとも相手が問題を抱えているだけなのか、を見抜く。
すべての人がそれぞれの事情を抱えている。もって生まれたもの、育った環境、現在の生活や仕事の問題など、その人の事情はその人にしかわからない。自分は変わることがてきても、相手を変えることはできない。
自分は相手の先生でもなければ家族でもないので、矯正してあげる筋合いもない。相手とうまくやっていく必要すらない。
評価を下すことは相手への暴力
また相手からの評価は銃弾のようなもの。評価という銃弾に当たらないように、ただ受け流すのが最も安全。「ふうん、そう思うんだね」「ああ、そう思う?」「考えてみるねー」など、切り返し方を決めておけば、相手の言葉にいちいちイライラさせられなくなる。
アドバイスには常に毒がある。
アドバイスとは全般に相手の領域に侵入するもの。自分の領域に不法侵入されることで怒りを感じるので、その不法侵入を許さなければよい。こう考える。こちらの領域に侵入されたのではなく、相手は相手の領域の中で悲鳴を上げているに過ぎない。
被害者になるのをやめる。
私たちは出来事そのものによって傷つくわけではなく、自分がそこにのせるストーリー(自分は粗末にされた)によって傷つく。そのストーリーを手放すには、自分が被害に遭った、と思う度に「そう断言できるほどの証拠がそろっているだろうか?」と考える習慣をつける。
怒りを生み出すストーリーは、現実に対して下した「評価」。勝手な評価やストーリーを乗せて心の負担を増やす必要はない。
正しさにこだわらない。
私たちにはそれぞれ「自分なりの正義」がある。相手にも自分なりの正義がある。しかし、世の中には唯一絶対の正義などない。自分なりの正義を主張し続けると、それは必ず他人の正義とぶつかる。
正しさの綱引きに勝利はない。
どうも私たちは「強く言えば何とかなる」と思い込んでいる節があるのだが、現実にはそんなふうにはならない。
どちらが正しいかという評価の次元から脱する。どちらの正義が正しいかは決めないという姿勢をとる。
忙しいという思い込み。
忙しいのは、実際の仕事の多さに加えて、「忙しくて大変だ」というストーリーを自分で作り出してしまっている。
こうしたストーリーはすべて「被害者モード」から生み出されている。被害者は人生を主体的にコントロールできない。
イライラしている自分に気付いたら、そこで深呼吸して、被害者モードから主体性モードに切り替える。
何かを学べる機会だと考える。
ガミガミと文句ばかり言ってくる人でさえ、「この人は私に忍耐の大切さをおしえてくれているんだ」と思えば、その人に対して腹は立たないはずだ。忍耐力のレッスンを無料でしてくれているのだ。
