もはや、前衛としての音楽が衰退されて久しい様に感じられる。いや、そもそも芸術全体がむしろその様なきらいがあり、この觀は時が進むごとにますます増えている様でもある。そして、この問題は実にビートルズ以降のロック形式の音楽にすら起きていることである。

 

 いや、まったく、シェーンベルクの音楽というのは、実に西洋音楽、つまりバッハ、モーツァルト等の作った芸術としての音楽の系列達が紡ぐ、調性の隆盛と衰退の極端だと言える。実際、彼の音楽は調性の支配であって、意図的に調性を殺し、むしろ調性を所有するという、まさに所有者としての音楽だった。なるほど、ブーレーズの言う様に、シェーンベルクはローマン的な側面を有していたでしょう。しかし、彼はローマン的な根底の中で、調性の無を提示したと言うそのことに画期があったと言えるのだ。

 つまり、彼はローマンを捨てないでいながら、調性は捨てると言う実にその故に前衛者であり得たのです。では、今やシェーンベルクのその歴史的な事実は如何に作用しているのでしょうか。少なくとも、ポップシーンには一切関係しないでしょう。あるいは、むしろポップシーンは調性からの逸脱という単純概念を応用して、好き放題やっているだけなのではないかとすら邪推できるほどです。


 ブーレーズの管理された音楽や、ジョンケージ等の偶然性という考えが現れ、音楽は今までの様な感情という高揚から脱することに成功した様に見えます。そして、それは調性の唾棄という、実にシェーンベルクの功績に依存するものであるのは事実なのです。しかし、この管理や、偶然は、実に調性、つまり西洋音楽の歴史それ自体の所有を弄ぶ結果になってしまったのである。ジョンケージは確かに素晴らしい音楽を作り上げた、しかしベートーヴェンの様な指標を、つまりドイツ的なローマンを提示はしなかった。ブーレーズも同じだ。結局彼の音楽は彼のみで完結してしまい、もはや調性という歴史は捨て去られる存在と化してしまった。


 もはや音楽がいない。シェーンベルクが死んだ時、その時から音楽がいなくなってしまった。確かに、ビートルズがいる。つまりヴェルベットアンダーグラウンドや、あるいはもっと後の時代のオルタナティブ連中であるニルヴァーナやソニックユースなんかは、確かな芸術の前衛性を感じる。しかし、そこにはもはや調性は関係ないものとして取り扱われる。


もはやシェーンベルクの功績は過去のものである。彼が成したのは単に啓示であり、その啓示とは音楽の形式の腐敗なのである。今では形式はリズムとリフであり、考え方としてはサビと抑揚である。調性は単なる付帯品であり、前衛性は、その轟音としてのノイズが担う。我々は今帰りゆくべきかもしれない。つまり、シェーンベルクの立場に。つまり調性の立場に。調性を所有すべきだろう。調性を捨てるのではなく、調性を所有し、それを音楽に使用するべきなのである。全ての音楽は確かに解放された。それは事実だ。しかし、再びあの囚われた地に戻り、調性やらなんやらを略奪し、所有しなくてはならない。それが成し遂げられた時、それが全ての始まりになるはずだ。音楽は次に進むべきなのだ。