目線の向きと心理の関係 (右利きの場合)自分側からの方向で、

左上・・・視覚的風景 過去の映像

右上・・・想像 未来の計画

左下・・・聴覚的なイメージの想起

右下・・・身体感覚的なイメージの想起 

水平・・・何かをよく聞こうとしたり、思い出そうとしている。

とされるらしい。心理学とか、読心術とか、NLPとかで、こういう事が言われているようだ。



このように、目線が前ではなく外を向いているとき、主体にとっての「時間」は、「直線」になっているのでは?


そして正面にあるモノを見つめているとき、主体にとっての「時間」は、「円環」になっているのでは?
遥かなる過去と、遥かなる未来は、どこかで繋がっているのでは?
わたしは循環する時間の輪に、囚われているのでは?
もしかしたら、同じことを何度も何度も何度も繰り返しているのでは?
だとしたら、いまは何週目?終わるのは、いつだ?



視界において、過去の光景は現在に圧縮されている。
太古の星々の光が、「今」、ともに輝いている。これは事実。


時間というものを直接見ることはできない。
だがもし時間が円環ならば、無限遠点がモノの中心点と同一視されるのと同じように、円環の直径は「見ること」によって収縮し、無限小となっている。

そして永遠の時間の円環は、「今という瞬間」に圧縮されている・・・?




固視微動(トレモア)は、e^iθ=cosθ+isinθの実数部分の表れである、というイメージを持っている。虚数部分は、知覚と認識という精神的なものに対応。ちなみに「観察」というのは直接経験的な知覚行為や認識行為の『イデア』。


視点の動き(サッカード)が眼の動きの微小変化の積分である、とか大雑把に考えてみる。そして上のe^iθにかかる係数(この場合は1)に、「時間の輪の大きさ」という概念をザックリ当てはめてみる。


もし時間が「今の一瞬に圧縮された微小な円環」であるときは、見つめる(固視微動)。


もし時間が「そこそこ大きな円環」であるときは、目線が左右に行ったり来たりする(反復するサッカード)。


もし時間が「無限に大きな円環」であるときは、(動作の限界に当たって)目線がいずれかの方向に固定される(思考時の視線)。



ちっぽけな主体にとって、無限に大きな円環は、「直線」だとしか思えない。



事物に対する認識や思考を行っている、内面にいる主体にとっては、時間は「直線状」に過ぎ去る。


外面で、知覚正面で「いま」モノを見つめている場合、トレモアの微細な振動と心の微細な揺れは、『永遠』を包む円となる。