韓国にあるサムライ 沙也可(さやか) の末裔の村 | いっしーのブログ

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http://www.nwj.ne.jp/public/toppage/20020320articles/ja_rek.html

 1592年、豊臣秀吉による朝鮮侵攻に参加した一人の日本人の武将が、朝鮮半島
に足を踏み入れた。武将の名は、沙也可(さやか)と伝えられる。
 秀吉の軍隊はポルトガル伝来の火縄銃で武装しており、刀と弓矢と盾で戦う朝鮮
軍を簡単に打ち負かした。だが戦闘のさなか、沙也可は配下の兵を率いて朝鮮側
に寝返った。
 「この戦いには大義がない」と、彼は降伏文書で述べた。「私は朝鮮の文化と礼に
敬慕の念をいだいている。神聖なる王に仕えたい」
 朝鮮国王・宣祖は沙也可の願いを聞き入れ、彼に金忠善(キム・チュンソン)という
名を与えた。金は朝鮮に鉄砲製造の技術を伝え、朝鮮軍はついに日本軍を撃退した。
 その後、金は朝鮮の女性と結婚し、6人の子をもうけた。子孫の数は現在、7000人
にのぼる。今も子孫数百人が住む大邱郊外の友鹿里という村は、韓国では「サムラ
イの里」として知られている。金の一族は先祖を誇りにしている。
 「平和を愛するヒューマニストだった」と、14代目にあたる金在錫(キム・ジェソク)
は言う。「今も生きていたら、ノーベル平和賞を受賞しただろう」

(中略)

日本でも始まった再評価

 晩年の金は、友鹿里に居を構えて儒教を学んだ。彼の詩文や自筆の書には学問への熱意
がうかがわれる。子供たちには「異郷の客として、栄達を望まず、儒教の教えに従って質
素に暮らせ」という教えを残している。
 金の末裔は苦労と栄光を経験してきた。その大半は韓国各地に散らばり、今も友鹿里に
残るのは約200家族にすぎない。
 日本では、金はひきょうな売国奴として黙殺されてきた。日本側は1910年に韓国を併合
した後、金に関する韓国の記録は偽物だと主張。45年に韓国が解放されてからも、日韓の
間に摩擦や論争が起こるたびに、金の末裔は心を痛めてきた。
 最近は日本でも金が再評価されている。99年には、金が朝鮮の文化に感銘を受けたこと
を記した中学校の歴史教科書も刊行された。
 いま金の末裔は、壮大な計画を夢見ている。友鹿里全体を日韓友好村として、両国の若
者の交流の場にしたいというのだ。
 2010年までにユースホステルや公園、そして日本を象徴する桜並木を造りたい。サムラ
イの子孫はそう望んでいる。

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らしいので、みんなで再評価しよう。


2 名前: 1 投稿日: 02/03/20 00:20 ID:WKGJjHC4
↓このページによると↓日本側に実在を示す資料がないらしい

http://61.205.68.50/kikaku/satuma/satuma16.htm
 兵3000人を率いていたという沙也可が、なぜ朝鮮軍へ寝返ったのか。当時の
武人として余りにも不可解なこの動機を伝記・慕夏堂文集は、沙也可自身の言葉
として次のように語る。
 〈かねて中夏(華)の儒教を崇敬していた自分は、名分もなく朝鮮・中国を討つ
ための出兵を内心納得できなかった。釜山に上陸後、戦時にもかかわらず儒教
精神に基づく礼儀作法のいきとどいた朝鮮の風俗に接して、いまさらながら
慕夏=中夏への敬慕=の思いを募らせた〉
 若武者・沙也可の胸に、異国の文化に殉じるほど深遠な精神世界ができあがっ
ていただろうか。それにも増しておかしいのは、3000人もの大量投降の事件が
日本側の記録に残っていない―これが植民地時代に慕夏堂文集偽書説を唱える
日本人学者の論拠だった。
 日本名としては極めて珍しい沙也可について「佐伯」、あるいは「サエモン」が誤り
伝えられた、という説がある。もっとも佐賀県相知町には、ずばり沙(いさご)という
姓がある。代々お寺の住職を務める古い家系だが、沙也可につながるような文書
や言い伝えは何もない、という。

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ほんとに沙也可って実在してたの?