世間一般から見れば、「運動会シーズン」は既に過ぎつつありますが、

うちのローの近くにある高校では、まさに昨日体育祭だった様子。

あー、そういえばもうそんな季節なんだねぇ。

遅ればせながらではありますが、今日はそんなことを思いました。





そういえば。

最近、特に小学校の運動会では徒競走等で「順位」を付けないとこが多いそうですね。

このスタイルには二つのパターンがあるそうで、

一つは、「順位=競争」というイメージを抱かせないような方法。

例えば1位、2位、3位のメダルではなく、青、赤、黄色の旗を持たせるなど。

そしてもう一つはズバリ、順位自体を付けないという方法。

ある小学校では、グループ全員で手を繋いだ50・100m走が行われるのだとか。




こういう実態を見るにつけ、

ガキの頃、何度か上級生による手作りのメダルをかけてもらった俺には個人的な寂しさもあり、

一方で、一国民としては、何ともいえない違和感を感じます。

そもそも何故こんな事態が起きるか。

それを考える前に、もう一個例を挙げてみる事にします。





先日、いわゆる「モンスターペアレント」特集を扱った番組で目にした、すんごい事例。

とある幼稚園にて。

毎年恒例のお遊戯会が行われる季節になり、今年の演目は「桃太郎」になりました。

勿論、先生は園児たちの希望を聞きますが、

どうしても「人気キャラ」と「そうでないキャラ」というのは出来てしまいます。

なので最終的にはクジなり何なり、恨みっこなしよの方法を取ることになる。

そして、どうにかこうにか桃太郎、イヌ、サル、キジ、鬼、その他が決まったわけ。




ところが。




それから数日間に、複数の親から苦情が殺到。つまり、

「何でうちの子が桃太郎じゃないんだ」

こういうことです。

いわゆる「村人A」や「木」に選ばれてしまった家の親はもっと血気盛んで、

園の説明に耳も貸さず、「これは桃太郎とその他、という競争的な差別だ」という批判を展開。

お遊戯会までには練習期間も必要であり、残り期間も少ない。

なのに、いくら説明しても保護者は納得しない。

最終的には、園が全面的に妥協して演目を実施することになりました。




当日、大量のデジカメで見守る保護者の前に登場したもの。

それが、園児たちによる約30人の桃太郎。

当然、本来のストーリーは破綻しますんで、

実際はほぼ「桃太郎軍団のダンス feat.先生による語り」だったのだとか。

個人的にはどっからどう見ても異様で、むしろ笑えてしまうような光景なのですが、

「端役から主役に昇格した園児」の保護者は、概ね満足していたようです。





さて、ここでもう一回考えてみます。

そもそも、何でこういう事態が起きるのか。

上述した2つの特集では、

「世の中にはこんなモンスターペアレントがいます」という結論付けがなされていました。

・・・まあ、確かにそうなんだけども。




しかし、この問題の核心部分はそういうところではなくて。

これらの事態が大体どこでも滞りなく行われているということ、言い換えれば、

(難色を示す保護者も当然いるでしょうが)およそ半数以上の保護者が支持しているということです。

つまり、「競争」が(限りなく絶対悪に近い)悪である、

という共通認識がかなり浸透している、ということに集約されるんじゃないかな。





では何故、このような概念が結構な人数の保護者に支持されるんだろね。

例えば、高度経済成長期以後、企業内部で盛んに行われてきた出世競争。

また、子供の点で言えば、90年代に顕著だった偏差値至上主義に基づく受験教育。

さらにもっとデカイ意味で言えば、敗戦からずっと引きずってきた競争そのものに対する反省。

突き詰めれば、こういった諸要素が社会全体に「競争」に対する疲弊を招き、

ともすれば忌避する傾向の要因になっているのではないか、と思うのです。




これらの根拠に基づいた「競争=悪」という考えは、基本的には正しい。

しかし、競争は絶対悪ではなく必要悪なのであり、

それに反して競争を過剰に排除する風潮は有害でしかない、というのが一貫した俺の考えです。




日本人というのはどうも不思議な人種で、

海外からは「意見がない」「考えが中性的過ぎる」などと叩かれている一方で、

競争至上主義 → 競争徹底排除と、極端に価値観を反発させる特徴も有している。




とはいえ、現代の文明社会における産物の大半は、

競争による切磋琢磨に基づいた技術・発明から生み出されたものが大半です。

また、視点をもっと身近なところに戻してみても、

人間のモチベーションや個性というものは、往々にして競争によって磨かれるんじゃねえかな。

少し哲学的な話になるかもしれないけどさ、

何かの分野で「凄い人」というのは、別の人間にとっての憧れや目標になるだろうし、

「その人に負けない」、あるいは「その人には出来ない事をする」と努力した結果、

特徴や人間性が醸成されることだってあるでしょう、というよりむしろ多いのでは。





「子供に競争をさせたくない」

これは親のエゴであると同時に、優しさでもあります。

私立大附属の幼稚舎に子供を入学させる「お受験」が今なお盛んですが、

保護者に理由を聞くと、「高校・大学受験で苦労をさせたくない」という返答が大半だと聞きます。




「塾だ、予備校だとゴリゴリ勉強させて、子供を追い詰めたくない」

「もし浪人したら、その子の将来が狭まってしまう」

子供の将来に影を落とすこういった不安材料を除去するために、保護者はお金を投下する。

ある意味、こういう親は誰よりも「保護者」という言葉を忠実に表現している、とも言えます。







しかしだ、そういう子供って大人になった後どうなんだろうね。

対抗意識というものが備わってないから、精神・能力面での伸びしろは極めて少ない。

そのくせ、競争というものを経験していないから打たれ弱い。

一方で、集団に「揉まれて」いない故に、性格は我侭な自己中。

こんな大人が社会にどんどん再生産されていったら、一体この国はどうなっちゃうんでしょうかね。





数年前、『世界に一つだけの花』が大流行して、こんなフレーズが絶大な支持を得ました。




ナンバーワンにならなくてもいい

もともと特別なオンリーワン




当初、この歌が国民的人気を得たことに対して、言い知れぬ「あったかさ」を感じたもんだけど、

今にして考えれば、あの流れの中で「変な」ミスリードが起きてたのかも。

この歌って、比べ合わなくたって人にはそれぞれ良さがある、ということを言っているのであって、

別に「競争なんてやめよう」ということを煽っているわけではない。

しかし、最近のいろんな事例を見ていると、どうやら後者に解釈した人が結構いるみたい。






もう一度言いますが、俺の考えは「競争は必要悪である」というものです。

運動の出来る人、勉強の出来る人、容姿端麗な人、リーダーシップのある人、誰からも好かれる人。

それこそ無数の凄い人が存在しうるわけです。

そして、そういう「素晴らしさ」は、

競争を初めとする「他者との比較・接触」という過程で育まれることが多い。

性格が荒んでしまう程に競争を徹底するなどというスタンスも理解に苦しみますが、

一方で、そういう「競い合い」を取っ払ってしまおうなどという考えは、まさに愚の骨頂です。






去年、何かのCM(ナイーブ?)で、こんなものがありました。

幼稚園のお遊戯会にて、息子が汗びっしょりになって「こんぶ」の演技をやっている。

主役どころか人ですらない端役に120%成りきっている息子に対して、父親が感動するというもの。

CMだからあくまで創作ではありますが、

「それぞれの持っている素晴らしさ」っていうのは、全員が主役をやることではなくて、

頑張りであるとか輝きであるとか、こういうところに本来あるのだと納得させられました。






保護者の鶴の一声で桃太郎が30人になってしまう、こんな時代。

「競争」に対する価値観は、今後どう変化していくのでしょうね。