『不合格体験記 4』




「奇跡とは、それに値する意思と可能性と価値がある人にのみ起きるもの」
ある雑誌より








2002年も終わろうと言う頃、
高校の進路指導室で、俺は担任と連日志望大決めを行っていました。



受験生の方ならよく分かる感覚だと思いますが、
高3の秋からセンターまでの4ヶ月は、本当に早い。



でもって、その間に最後の模試の結果と、残り期間での自分の予想伸び率を比較しながら、
年内に国公立&私立の志望大を決めなくてはならない。
国公立に関しては、提出期限の関係で「センターを見てから提出」するのも可能ですが、
それはあくまでも、本来の第一志望と自分の学力が拮抗してるからこそ出来るわけで、
やっぱり、年内に「ココかココ」ではなく「ココ!」と最終決定を下すのが原則でしょう。










なので、12月に入ってからは、↑で書いたように俺も担任と協議です。
でも、俺の場合、他のクラスメイトと比べてエラく長引きました。
理由は簡単、俺と担任の意見が真っ向から対立してたから、です。





02年12月当時の俺の偏差値は、総合62.7(代ゼミプレ調べ)。
50台まで転落したドン底時代からすればだいぶ持ち直したように見えますが、
これは「暗記&暗記」の勉強が、たまたま英語・日本史などに反映されただけの話。
前回の記事でも書いたとおり、
俺の勉強法は基本から破綻しており、しかも勉強時間も絶対的に不足していました。
↑↓↑↓を繰り返す、安定に欠けた偏差値です。





こういう結果を受けてもなお、俺の頭に残ったもの。
それは、今まで散々書いてきた、そう、「エゴ」です。










残り一ヶ月では、どう背伸びしても不可能なのは分かっているが、東大に行きたい。
というよりも、難関大に入りたい。
模試の偏差値を見たところで、お話にならない実情なのも分かっているが、
けど、全国有数の進学校なだけに、友達が受ける大学はほとんど難関大ばかり。
自分だけ、「低い」第一志望に変更するのも、「低い」滑り止めを受けるのも嫌だ。



中学友にも、高校友にも、親にも、親戚にも、同情されんのは我慢できない。
まだ「凄い」と思われていたい。





結局、俺は第一志望を東京大学・文科Ⅰ類から変えず、
私大も難関大のみを選択しました。










これに担任は猛反発。
担任(俺の恩師で、K先生といいます)は、受験のベテランでもあるし、進学校の教師でもあります。
この志望校では、まるで勝てる見込みがないことを十分把握していました。



そして、俺自身が「受かるはずない」と認めてることも、
難関大に固執するのは「目的があるから」ではなく、単なる「エゴ」であることも、
「これから一ヶ月間、死ぬ気でやる」と俺は言っているが、
「やる」と言い続けて3年間結局やらなかった俺が、果たしてあと一ヶ月でどれほど伸びるかという事も、
・・・何もかも見透かされてるかのような、そういう感じ。






さらに、面談において親から
「親としては、せがれが背伸びをするような受験はさせたくない」という意向も受けていたようで、
それらを踏まえての、K先生と俺の対立。





「国公立と滑り止めのランクを下げるべきだ」
「嫌です」





受験は莫大な時間を使う、何十万という金もかかる。
そんな中で、今後の伸び率もたかが知れてるのに、「記念受験まがいの行為」をして何の得があるのか?
という、至極当然な担任の主張と、
それでも受けたいという、滅茶苦茶な俺の主張。











結局、最終的には本人の判断に任せられ、
周囲の猛反対の中、俺は国公立&私立大の志望校を決定しました。
以下に、ラインナップを列挙しますね。




<国公立>
(前期)東京大・文科Ⅰ類
(後期)東京大・文科Ⅰ類

<私立>
慶應義塾大・法・法律
早稲田大・法
早稲田大・一文
中央大・法・法律

<センター利用>
なし




「無謀」 の一言に尽きます。
根拠の無い自信に満ち溢れた志望校です。
法学部一色かと思いきや、早稲田(一文)を志望していたりもして、
こういう部分でも、俺の難関大固執は「目的」ではなく「知名度&エゴ」重視なのが分かります。




しかも、その一方でセンター利用は一校もなし。
強気な志望校設定をしていながら、センターでの敗戦確定を勝負前から既に悟っている選び方。
矛盾だらけです。




当時の俺の心情は「理解」は出来ます。
けど、自分のことながら未だに「納得」は出来ません。













2003年、センター試験



会場である某国立大学に、俺は友達数人と到着。







1月に入ってからの勉強は、結局ロクな内容にならなかった。
一日10時間とか、実際に毎日やりました。
けど、「いよいよ2週間切った」っつう不安と、
「俺の3年間の勉強は、ただの詰め込みだ」っつう自覚。
こういうのがもの凄いプレッシャーにもなって、時間数はこなしても集中力は分散。





そんな中で、
全国60万人超が受験する最初の、かつ最大級の試験が幕を開けました・・・。





~試験中の俺の実況中継してもアレなので、割愛~











そして、翌々日。
センター終了の翌日は、3年は全員1限から自己採点をします。
で、その採点結果を3大予備校に送って、暫定状況をリサーチするんですな。




自己採点をしながら「よっしゃ」と小声で叫ぶ者、
顔面が本当に真っ青になる者、女子なんかではその場で涙を浮かべだす者、様々です。
そして俺は・・・





こうなる事は予期していたんだから、と事前に腹をくくれていた反面、
リアルな結果に引きつり笑いを浮かべておりました。
人間、こういう時って不気味な笑いをするものです。






採点をしてて気づいたのが、持ち帰ってきた各教科の問題冊子。
どの冊子も、ページの表面がボコボコになってるんです。
これは何か・・・言うまでもなく「手汗」です。
これだけでも、試験場での俺の焦りと怯えが確認できる気がします。











さて、それではセンターの結果をば↓
(半年後に郵送される開示請求の点数を基にしています)



02’センター試験結果

英語    155
国語Ⅰ・Ⅱ 137
数学ⅠA  63
数学ⅡB  55
日本史B  87
生物ⅠB  57

総得点(800点換算)554点
得点率 69.2%

※シリーズの最後で、現役時・浪人時と比較して採点講評をしようと思います。





総得点だけでも十分ですが、個別に見ていくと尚のことリアルですね。
・・・正直、ヒドイです。
ましてや、私大センター利用なんかは、この点数では勝負になりません。




けれども、センター試験はもう終わってしまった。
俺はもう、この結果でもって本戦に臨むしかなくなったのです。










センター試験後




結果に恐れをなした俺は、
あれだけ固執してたにも関わらず、あっさり後期の受験校を変えました。
「東大・文科Ⅰ類 → 東北大・法」
大半の東大受験生とは違い、
その時の俺のスコアからすると、この変更はほとんど難易度が落ちてません。
↑のセンター得点を基に考えれば、東大も東北大も、どっちも「高嶺の、そのまた高嶺の花」です。




今の俺でもどう説明すりゃいいのか分かんないくらいに、「彼」は混乱しているのが見て取れますが、
その時の「彼」の願望だけは分かります。




嫌だ、ああ嫌だ、もう嫌だ。
早く、とっとと受験終わってくれ。
そして、「どっか一つでいいから」受からしてくれ。










センターを見る限り、東大の合格水準には到底及ばない。
勉強の基礎も、経験値もない。
もはや、それを補うだけの時間も気力も無い。
そんな状況なのに、過去問すらたった2年分をダラダラとやっただけ(しかも解けてない)。




その一方で、俺の「しつこく醜いエゴ」は変質して、
「とにかく東大へ」から、「ネームバリユーのある旧帝大」にあっさり妥協。
当時の俺は、これを「妥協」と表現したけれど、
東北大・法の難易度と俺の学力からして、これが「妥協」と呼べるはずもないのは明らか。
そして、センター得点にビビッての突発的な転向なので、
東北大の出題傾向など「まるっきり」把握していない。




慶應義塾・早稲田・中央と、「滑り止め」にしてはゴージャスすぎるラインナップを揃えてはみたけれど、
このレベルが、当時の俺にとって滑り止めになり得ないのも目に見えていました。



けれど「ラクして体面を守る」という都合のいい奇跡が起きるはずだと、心のどっかでまだ信じていた俺は、
センター結果を通して「己の現実を知る」最後のチャンスを棒に振り、
本戦も本戦、私大&国立入試へと向かっていったのでした・・・。



『不合格体験記 5』に続くのだ。