細胞の
2・22 像は、描写内容の真偽とは独立に、その写像形式によって描写を行う。
2・221 像が描写するもの、それが像の意味である。
2・222 像の真偽とは、像の意味と現実との一致・不一致である。
2・223 像の真偽を知るためには、われわれは像を現実と比較しなければならない。
2・224 ただ像だけを見ても、その真偽は分からない。
2・225 ア・プリオリに真である像は存在しない。
再び、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(野矢茂樹訳 岩波文庫)(以下『論考』と略記する)の記述です。
『論考』の主張を、そのまま発句に転用してみましょう。
“2・22 像は、描写内容の真偽とは独立に、その写像形式によって描写を行う”
このブログにおいて私は、形式形式と○○の一つ覚えのように繰り返して来たように思います。
「五七五」「切れ」「季語」「格」などがそうです。
形式の「働き」とか、形式が「働く」は、形式が実際に稼働することを意味します。
たとえば「五七五」の稼働については、発句(発句は詩ですから詩)の表現形式(ということは『論考』風に云えば写像形式ということなのですが)は文学というよりむしろ音楽に近い、ということを云ってきました。
その形式がいかなるものであるかも、述べたつもりです。
例によって「像(つまり命題)」を「発句」と読み替えてみてください。
「発句は、描写内容の真偽とは独立に、その写像形式によって描写を行う」
でしょう?
“2・221 像が描写するもの、それが像の意味である”
まあ、発句の写像形式は、ある意味特殊と云えるかもしれません。
なぜなら、発句は直接述べられていないことの像も描くからです。
私の発句の読みは、直接述べられていないことの像を描くことに重点を置いています。
「それが像の意味である」なら、「像が描写するもの」を再構成するのが発句の読み方の基本であろうと思うからです。
「発句が描写するもの、それが発句の意味である」
“2・222 像の真偽とは、像の意味と現実との一致・不一致である”
そうなんです、発句に描かれていることは現実と一致するかどうか、私が日々心がけて季語を念頭に現実の在り方を確認しているのはそのためなんです。
“2・223 像の真偽を知るためには、われわれは像を現実と比較しなければならない”
ということですね。
“2・224 ただ像だけを見ても、その真偽は分からない”
そうなんです。
ただ発句だけを読み・鑑賞するだけでは、その発句がいかにして現実に触れているのかは判りません。
芭蕉の『奥の細道』の旅は、「歌枕」を訪ねる旅でもありました。
芭蕉も「像を現実と比較」したかったのだと思います。
いにしえの歌詠みたちが詠んだ歌によって描かれる像を、現実の中で確かめてみたかったのでしょう。
それは即「いかに描くか」という終わりのない課題に一つの答えを探ることでもあります。
いにしえの歌詠みたちが歌を詠んだと伝えられる場所(歌枕)に実際に身を置いて、歌と現実を比較する。
そこにおける様々な発見こそ、自らの作句の方向を見定める標(しるべ)となったに違いないのです。
発句の読みにおいて、現在「季語」と称されているものが現実のいかなる対象であるのか、これはたいへん重要です。
いえ、季語はもとより「像を現実と比較」するには、その要素であるさまざまな語を現実の中で確認することが、まず要請されるでしょう。
こうして、現実とその写像であるコトバ(命題である場合がほとんど)を比較することこそ、コトバによって像を描く第一歩なのです。
けだし、
“2・225 ア・プリオリに真である像は存在しない”
のですから‥。
(ここでの「ア・プリオリに」は、「経験に先立って」くらいの意味です)
細胞の悲鳴きこゆる暑さかな ousia
|さいぼうの○○|ひめいきこゆる|あつさかな○○|
ではまたでスゥッ・・・(ーoー)y゜゜゜