夜は三日月の | 俳諧伝授

夜は三日月の

植ゑつけし夜は三日月の門田かな  青蘿


|うえつけし○○|よはみかづきの|かどたかな○○|


季節は「田植(植ゑつけし-門田)」で夏。


松岡青蘿(まつおか・せいら)(1740~1791)の俳諧の発句です。


「植ゑつけし」の「し」は、過去回想の助動詞「き」の連体形です。


よって、青蘿の眼前にあるのは、空に三日月のかかった門田で、田植、つまり苗の植え付け(田植)は、日が暮れる前のことです。


「門田」は、門(もん)の前にある田、ここでは青蘿の家の近くの田でしょう。


俳諧の「三日月」は、ふつう陰暦八月三日の月を指す秋の季語なんですが、この句の場合は田植という明らかな時節を示すものがありますから、三日月一般、つまり単に陰暦三日前後の月を指します。


家の近くの田、その空にはいま三日月がかかっています。


三日月は満月の欠如体ですから、いかにも弱々しく頼りない感じがしますよね。


そんな三日月が、水の張られた門田にも映っていたのでしょう。


そしてその門田には、やはり弱々しく頼りない感じの苗が等間隔に並んでいた。


で、「そういえばこの門田は、昼間に苗を植え付けたばかりだったなぁ」と、その状況のもとに回想しているわけです。


三日月は、上に書いたように満月の欠如体です。


細い三日月は、徐々に満ちて、やがて満月へと成長します。


「三日月」は「満月へと成長する」を含意していますよね。


さて、門田に昼間植え付けられたばかりの苗。


苗は、やがて穂を付けその果実である米を実らせます。


苗は、米を実らせた収穫期の稲へと成長します。


「苗」は、「米を実らせた収穫期の稲へと成長する」を含意するでしょう。


したがって苗は、稲の欠如体とも云えますよね。


この両者の欠如体であることの偶然の符合。


青蘿は、これを面白いと思ったのではないでしょうか。


「植ゑつけし夜は」の「は」は、他と区別し取りだして云うときの「は」です。


満月の夜でもなく、新月の夜でもなく、半月の夜でもなく‥‥植ゑつけし夜「は」―とりわけ―三日月の門田だなあ、というわけですね。


植え付けられたばかりで、まだ充分に根を張る(活着する)こともなく、頼りなげに、いかにも弱々しく水面にわずかに葉を垂れている苗。


そのような苗の並ぶ門田にかかる、満月にはほど遠い頼りなく弱々しい三日月。


この状況に、青蘿は感ずるところがあったのでしょうね。


いかがでしょうか、ここまで解明してくると、そのときの青蘿の胸の内、つまり「植ゑつけし夜は三日月の門田かな」という発句でしか表現しえない胸中が、おぼろげながらにも見えて来たのではないでしょうか。


ひと言で云えば、物に寄せる愛憐(あいれん)の情でしょうか。


その情が偶然による対象どうしの出会いによって具体的な姿を採ると、この句になるのです。


もちろんこの句が現実の像であるのは、云うまでもありません。


ではまたでスゥッ・・・(ーoー)y゜゜゜