水かたぶけて
湖の水かたぶけて田植かな 几董
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季節は「田植」で夏。
高井几董(たかい・きとう)(1741~1789)の俳諧の発句です。
俳諧で「湖」と云えば、ほぼ「琵琶湖(びわこ)」のことを指します。
「かたぶけて」は「傾(かたむ)けて」です。
「発句(とりわけ蕉風のそれ)は現実の像である」というのが私の主張するところです。
ん?じゃあ“琵琶湖の水を傾けて”って何?とか訊かれそうです。
いえいえ、そんなことが現実に起きるはずがありません。
これ、比喩(ひゆ)なんですよ、比喩。
では、どういう像の比喩なんだ?ということですよね。
この句の知覚・経験の視点、つまり几董の眼前にいかなる光景があったのか、です。
仮に、ほんとうに「湖の水かたぶけて」みたらどうなるでしょう?水は勢いよく出て行くでしょうね、‥ですよね。
「水の勢い」これが、この比喩の像です。
で、下五の「田植かな」に、これをかさね描きします。
こうして立ち現れてくるのが、几董のある時点ある地点における知覚・経験の視点です。
具体的に展開させてみましょう。
琵琶湖の近くなんでしょうね。
少なくとも、琵琶湖と田が同時に視野に入る場所です。
琵琶湖から水路で直接水が引かれているのでしょう。
その水が、水口(みなくち)から勢いよく田んぼに流れ込んでいる‥。
几董「ああ、田植の時期なんだなぁ」
と、まあ、その琵琶湖直結の水の勢いに感慨を覚えているんですね。
「田植かな」とありますが、必ずしも眼前で田植が行われてなくても、この句の世界は成立すると私は思います。
几董がいま注目しているのは、ただ水口から勢いよく流れ込む水そのものだけなのです。
湖の水かたぶけて田植かな 几董
句じたいには「水の勢い」なんて、どこにも述べられていません。
蕉風独特の述べない表現、顕在化させない表現ですね。
が、几董が実際注目し感慨を覚えているのは、突き詰めて云えば間違いなく「水の勢い」だろうと私は思います。
この読みには自信があります。
できるなら、几董本人に確かめてみたいのですけどねぇ‥。
ではまたでスゥッ・・・(ーoー)y゜゜゜