啓蟄や
啓蟄やクルマ列なる雨の坂 ousia
読み
|けいちつや○○|くるまつらなる|あめのさか○○|
季語は「啓蟄」で、春の俳句です。
今日は二十四節気(せっき)の一つ啓蟄です。
“二十四節気とは簡単にいうと、太陽の横道上の動きを二十四等分したものであり、春夏秋冬に六個ずつ配置される”
大谷光男監修『旧暦で読み解く日本の習わし』(青春出版社)
啓蟄の啓は「ひらく」、蟄は「とじこもる」です。
啓蒙(けいもう)思想というときの啓蒙の啓、時代劇なんかで「蟄居(ちっきょ)閉門を申しつける」というときの蟄居の蟄ですね。
「とじこもる」を「ひらく」で、“土中に冬眠していた蟻・地虫・蛇・蜥蜴・蛙の類が穴を出てくる意であるが、日本ではもう少し遅れるのが普通である(山本健吉『最新俳句歳時記』)”ということです。
“太陽の横道上の動きを二十四等分したもの”である二十四節気は、私なんかはすごく合理的だなと思っています。
これはつまり、太陽からとどく光の角度の違いであって、万物の色彩の変化はこれに拠っていますよね。
季節の変化を気温の変化だけで捉えるのは、いかにも浅はかなんじゃないだろうか。
まえにも書きましたが、四季それぞれにそれぞれの色彩がある、というのが私の主張です。
もちろん、動植物とか気象の変化も季節の変化を示しますが、それはすべて四季折々の色彩の中での変化ですよね。
たとえば、春の若葉が若葉としてあのように美しいのは、春の柔らかな日差しあってのことだろうと、私は思っています。
「春光(しゅんこう)」という季語がありますが、これなんか、そういうことじゃないかな。
春光
春の景色、春の様子である。春の日光でなく風光であるが、ふつう陽光のかがやかしさの意をこめて用いている。「春の色・春色(しゅんしょく)」も同様であるが、春めいてきた風色という感じで、早春にふさわしい。「春の光・春の匂・春景色・春容・春望・春景」(「」内は傍題)
山本健吉『最新俳句歳時記』
どうだろう「春の持つ万物の色彩」で、すべて括(くく)れると私は思うのですけどね。
で、春の風情も当然「春の持つ万物の色彩」によって基本的に決定されるんじゃないでしょうか。
「のどか」とか「うららか」とかね。
人は、情報の70%を視覚から得ていますからね。
とはいえ、視覚オンリーに偏ってもダメですけど‥。
ではまたでスゥッ・・・(ーoー)y゜゜゜