寒の月
寒の月川風岩をけづるかな 樗良
読み
かんのつき かわかぜいわを けずるかな
季節は「寒の月」で冬。
三浦樗良(みうら・ちょら)(1729~1780)の俳諧の発句です。
寒の内
小寒・大寒の候の総称で、寒の入り(小寒)から寒明(節分)まで約三十日間を言う。ことに大寒に入ると、寒気がもっとも厳しい時節とされる。「寒」「寒中」。寒に入って四日目を「寒四郎」九日目を「寒九(かんく)」と言う。(「」内は傍題)
[ 山本健吉『最新俳句歳時記』]
今日一月五日は小寒、寒の入りです。
一年中で最も寒い時期に突入します{{ (>_<) }}
皆様、防寒対策怠りなく、寒さに備えましょうね。
さて、上掲句。
「寒の月」です。
「冴ゆる」というのも冬の季語ですが―傍題(ぼうだい)に「月冴ゆる」なんてのもあります―「寒の月」まさに、冴え冴えと凍り付くような色の月ですね。
空気も澄んでいますから、月光に照らされた空は明るくて、よく見ると昼間と同じような青ささえ微かに見ることができます。
「川風岩をけづるかな」
冴え冴えとした月光の差し込む川です。
「岩」ってありますから、少し山間部に入った渓流なんでしょうね。
草は冬枯れて、木々はすっかり葉を落としています。
そういう草木に囲まれた渓流の岩が、寒の月に照らされくっきりと浮かび上がり、風に吹かれている‥。
問題は「岩をけづる」です。
普通、岩を削るような風って云えば、誰でも強風ないし暴風を思い浮かべますよね。
が、それだとどうでしょう「寒の月」の風情が損なわれてしまうように思いませんか。
近現代の俳人はもとより、蕉風以降の俳匠たちも日頃物をよく観察しています。
樗良も、そうだったでしょうね。
そんな樗良が、「寒の月」の風情が損なわれてしまうような詠み方をするわけがない、と私は思います。
ちょっと「川風」という語の語感を考えてみましょう。
何の形容もなく「川風」って云うと「夏の涼しい川風」が浮んできませんか?これ、強風でも暴風でもないですよね。
つまり「川風」と「岩をけづる」は、アンバランスなんですね、私はそう思います。
ですから、この風はゴウゴウと吹く強風・暴風ではなかったと思います。
擬音語で云えば、ヒューヒューくらいでしょうか‥。
じゃあなぜ「岩をけづる」なんでしょうね?
「川風岩をけづる」って、「寒の月」に照らされて、その月光の下にあってはじめて、ヒューヒューくらいでしかない川風が、そのように、つまり岩を削るように、見えるんじゃないでしょうか。
この句って、あくまで「寒の月」の「月下の風情」です。
この「川風」が、ゴウゴウと吹く強風・暴風だったりしたら、それこそ「寒の月」の風情は吹っ飛んでしまうんじゃないでしょうか。
樗良が、寒の月の月光の下、ある渓流にやって来ると、、肌に冷たい風が触れた。
それはちょうど(強さとしては)「夏の涼しい川風」くらいの風だった。
冬枯れの草はさわさわとなびき、耳を澄ますと冬木立はヒュー、ヒューと甲高い音を立てている。
そのとき渓流の岩は、まるで寒の月の月光を帯びた川風に削られているように見えた。
そう読んではじめて「川風」と「岩をけづる」の語感のアンバランスは解消し、樗良の視点で見るこの句の情景が、立ち現れてくるのではないでしょうか。
解りにくいですか?
詰まるところ岩を削るのは、風の強さじゃなくて寒の月の冴えた輝きである、ということなんですけど´_`。
ではまたでスゥッ・・・(ーoー)y゜゜゜