三日過れば
正月や三日過れば人古し 闌更
読み
しょうがつや みっかすぐれば ひとふるし
季節は「正月」で新年。
高桑闌更(たかくわ・らんこう)(1726~1790)の俳諧の発句です。
正月、年があらたまって、人々の面貌もどことなく初々しくあったのだが、それもさすがに三日(三箇日)を過ぎれば日常の風貌にもどるものだなぁ、散文的に展開するとこんな感じでしょうかね。
これを「三日過れば人古し」とズバリ云い留めたところが俳諧です。
で、この「三日過れば人古し」に風情と意味の豊かさを与えているのが「正月」という季語です。
むろん、それが切字「や」のかさね描く働きなのは云うまでもありません。
「正月」の風情は、今日でも失われてないと思いますが、いかがでしょう?この句の雰囲気、解りますよね。
さて、この句の視点は?と、問うてみましょう。
なにか、ただちょっと捻って述べただけの、句のように思えます。
が、発句の当座性を思い出すなら、この句はがぜん具体性を帯びた知覚・経験世界の描写となります。
発句は、俳諧の連歌が興行される当座、つまりその場で詠むのが本来です。
「三日過れば」ですから、まあ四日か五日の俳席なんでしょうね。
俳諧連歌の興行は、文化サロン的側面を持ちますから、メンバーは日頃親しく接している俳諧仲間・連衆です。
三箇日(さんがにち)も興行があったでしょう、そう見るのが順当です。
つい昨日か一昨日に、同じ顔ぶれが文字通り面つきあわせて俳諧に興じたことでしょう。
まあ、その疲れ(遊びすぎ)、あるいはマンネリズムもあったんでしょうね「人古し」ですから( ^ _ ^ )
で、四日か五日の俳席に、また同じようなメンバーが集まっているわけです。
それぞれが所定の席に着いて、では発句を、という段になって客の位置に居る闌更は「正月や三日過れば人古し」って詠んだのでしょうね。
これ、ウケたでしょうね。
その場に漂っていた疲れとかマンネリズムは、この発句の笑いによって吹っ飛んじゃったでしょうね。
そうやって座の雰囲気を盛り上げるのも発句の役目ですから、この句そういう意味では名句と云えるでしょう。
まさに正月らしい、笑いを誘うお目出たい句でしょうね、いろんな意味で( ^ _ ^ )
ではまたでスゥッ・・・(ーoー)y゜゜゜