落葉のくぼむ
人疎し落葉のくぼむ森の道 太祗
読み
ひとうとしおちばのくぼむもりのみち
季節は「落葉」で冬。
炭 太祗(たん・たいぎ)(1709~1771)の俳諧の発句です。
○疎し(うとし)
〔形ク〕 ム(身)ト(外)シの転か。我が身が対象に対して疎遠な状態にあるの意。
〔『岩波古語辞典』〕
この句の「人疎し」は「森の道」に対してそこを歩く人が疎遠になった状態を云うのでしょうね。
先日、吏登の発句「ほれぼれと日を抱く庭の落葉哉」の記事で述べたように、「落葉」は、古くから詩歌に読み継がれてきた季語(竪題)ですので、本意が存在します。
“みし秋の紅葉も嵐にきをひて(競って)ちりみだれ、みるがうちに梢まばらになり行体(ゆくてい)をいひ、風の行(ゆく)葉にしたがひて空にみだるゝは、飛(とぶ)鳥にまがひ、礒(いそ)山の紅葉ちりうかべる(散り浮かべる)を海人(あま)のながせる舟かといふは、舟を一葉といへば也。立田川には流れもせき(堰き)かへすばかりちりみだれ、大井川にはくだす(下す)いかだ(筏)もなずむ(進み煩う)やうにみなし、岸の紅葉は雨かとふれ(降れ)ども水は増さらずとも、又は庭の紅葉ゝ散敷(もみじばちりしき)て人もかよはねばふみ分けたる跡なしとも、落葉は秋よりかつがつ(早くも)散(ちる)心をよめど、打ちまかせては(普通は)冬のもの也。落葉衣(ころも)とは、衣にみたてゝいへる也。又、冬の葉、霜のは共云(いう)”
[ 有賀長伯『初学和歌式』]
長伯は「庭の紅葉ゝ散敷(もみじばちりしき)て人もかよはねばふみ分けたる跡なしとも」と記していますが、太祗は逆に、そこを歩く人が疎遠になり、たとえ落葉が散り敷いて隠したとしても、道は、かつて歩いたであろう無数の人々の重みを、くっきりとその痕跡、落葉のくぼみとして示している、と、そのように描きだしています。
みち〔道・途・路〕
「み」は神聖のものにつけて用いる語。「ち」は「ちまた」「いづち」など道や方向をいう古語。道は霊の行き通うところでもあり、またそこをうしはく(自分のものとして領有する)「みちの神」があると考えられていた。地域について「みちのく」「みちのしり」のようにいう。人の通行するところから、人の履践(りせん→ふみおこなうこと)する方法や道理の意となり、その道理を教えるときには「みちびく」「みちびき」という。
[ 白川 静『字訓』]
「人が歩けば、そこが道になる」って云うけど、それをこうして厚く散り敷いた落葉のくぼみとして見せてもらうと、感慨ひとしおですね。
そして、この感慨はまさに、たとえ百万語をついやしても「語りえぬもの」です。
見落としてならないのは、
「人疎し落葉のくぼむ森の道」
このコトバの配列は、リズムによってのみ決定される配列です。
たとえ一字動かしても、この世界は成立しないでしょう。
それほど、これらの語の占める位置は不動です。
リズムの上での分節・切れは「人疎し」「落葉のくぼむ」「森の道」となります。
ただし「落葉のくぼむ」と「森の道」は、構文上連結されますから、リズム上と構文上という二重の分節・切れを持つ「人疎し」に、じかに、その残響のうちに重ねられます。
「人疎し」は、この詩型独特の「切れ」の働きによって「落葉のくぼむ森の道」に、じかにかさね描きされるということです。
どうです?見えて(知覚されて)きませんか?
このようにして立ち現れる太祗の視点の中に立つとき、それはもはや読者の知覚・経験する世界と云っていいんじゃないでしょうか。
さらにそのとき、読者は「語りえぬ」太祗の感慨の中に立つ、ということでもあるのです。
(あれ?また大見得を切っちゃいました?(--;)