海に出て
海に出て木枯帰るところなし 誓子
読み
うみにでてこがらしかえるところなし
季節は「木枯」で冬。
山口誓子(やまぐち・せいし)(1901~1994)の“俳句”です。
きょうは趣向を変えて「俳句」をご紹介します。
昨日ご紹介した言水の発句
凩の果はありけり海の音 言水
との比較のうちに「俳諧の発句」と「俳句」の表現構造というか作者の自我の在り方を語ってみようと思います。
まあ、成功するかどうかは、保証の限りじゃありませんが‥。
昨日お話したように、言水の発句には言水の知覚・経験世界における視点が刻印されていました。
「知覚・経験世界における視点」といっても難しいものじゃありません。
誰でも普通にやっている、日常的なことです。
知覚風景、例として視覚風景を考えてみるなら、それはかならずこの世界の時空の視点からの風景にほかなりません。
人は、誰でもその人の存在する時空の位置からものを見てるっていう平凡なことです。
人の、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚・運動覚・思考・感情、これらはすべてこの世界のその人視点から知覚・体験されます。
まあ、思考や感情が知覚されるというのは変かもしれませんが、詳しくやってるとぐちゃぐちゃになっちゃうので、ラフにいきます。
言水は、陸を背にして海を見ていました。
ある日・ある時の視点から‥。
背後には凩が木々を抜ける音を、目前には海の音を聞いていました。
彼の露出した部分の肌を、冷たい凩が撫でています。
味覚はともかくとして、海の匂いや、枯葉や冬木立の匂いがしていたでしょう。
背中に受けた強風に足を踏ん張って、それは運動覚として知覚されていたでしょう。
これが言水の視点からの知覚・経験世界です。
その視点にあっての「凩の果」の発見を詠んだのが「凩の果はありけり海の音」という、俳諧の発句です、私はそう思っています。
つまり、言水の発句には、知覚・経験世界の視点が刻印されているのですね。
他方、誓子の俳句はどうでしょう?
この俳句に、知覚・経験世界の視点なんてあるでしょうか?
「海に出て木枯帰るところなし」
どうだろう?
誓子は海上の船の上にでもいるのでしょうか?
が、昨日のお話で判るように、凩が凩であるのは、陸上において、です。
凩という存在者は、海上ではもはや、あえて名付けるなら、冬の海風、あるいは単に北風と云うべきものにその存在を変貌させているのではないでしょうか。
誓子の知覚・経験世界の視点は?
残念ながら私には見あたりません、私の読み手としての力量不足なんでしょうかね?
この句のどこをどうさがしても、誓子の知覚・経験世界の視点なんて、どこにもない‥。
この句は、誓子の思いであるとか、感情であるとか、あるいは思考であるとか、の比喩的表現なんじゃないでしょうか?
「海」も「木枯」も、それは「海」という存在者、「木枯」という存在者を指示する語ではなく、表現上のレトリックなんじゃないでしょうか。
誓子の念頭に言水の「凩の果はありけり海の音」があったのは確かだと思います。
言水の発句をふまえての俳句でしょう。
が、この表現構造の違いはどうだろう‥。
両者の指向性は、まったく逆向きですよね。
言水は事象そのものへ指向しているし、誓子はおのれの内面を指向しているとしか思えません。
であるなら、誓子の視点は誓子自身の内にある、としか云えそうにありません。
人は誰も、他人の心の内をじかに覗くことはできません。
誓子自身の内にある視点など、超常能力の保持者でない私には、手に負える代物ではないのです。
俳諧の発句と俳句は形式上は瓜二つだが異質のものである、これは何度かこのブログで述べてきた私の主張です。
両者の句の表現構造が、それを如実に物語っているのじゃないでしょうか。
私が「俳諧の発句」と「俳句」を区別している理由の一つは、この表現構造の違いにほかなりません。
まあ、すべてそうだ、とは云いませんが、こういう傾向が両者にある、ということだけは云えるのではないかと思います。
これを足掛かりとして、発句作者と俳句作者の自我の在り方についても語りたかったのですが、長くなりましたので、いずれまた機会をあらためて、ということにさせていだたきます。
今回は、このあたりで。