果はありけり
凩の果はありけり海の音 言水
読み
こがらしのはてはありけりうみのおと
季は「凩」で冬。
池西言水(いけにし・ごんすい)(1650~1722)の俳諧の発句です。
この句は、人口に膾炙し一世を風靡した、現代で云えば、さしずめミリオンセラーを記録した流行歌みたいなものです。
この句の評判により、言水は「凩の言水」の異名を取りました。
「陸上を吹きまくったさすがの木枯らしも、海上に出ては怒濤逆巻く冬の海の音にかき消されてしまった」これが通常の解釈です。
まあ、これで文句はないのですが‥これでもいいんですけどね。
ただ、この句に刻印された作者の視点はどうなのか、ってことです。
作者は、陸を背にして海を見ている、と思うんですね。
で、そのとき、凩の吹く音も、荒れた冬の海から打ち寄せる波の音も、同時に聞こえてるはずなんですよね。
凩の音が海の音に消されてしまうわけではない‥そう思うんです。
言水が「果」で云い留めたものは、そういう「音」の在り方じゃなくて、どちらかと云えば空間のほうですね、これを捉まえたんじゃないかと‥私は思うんです。
まず「うねり」と「波」を区別しましょう。
うねりは、海そのものの周期の長い波、海水の質量そのものの波動です。
一方、波はこのケースだと、風によって海水の表面が乱されてできる皺みたいなものだと思ってください、いわゆる風波ってやつです。
作者の視点を特定しましょう。
「海の音」ですから、作者は、うねりが陸に打ち寄せては返す、波打ち際を視線に捉えているでしょう。
当然、その音、周期的なうねりが打ち返す音がして、作者はそれを聞いています。
荒れた海を眺め、その音を聞いているのですから、波打ち際からはやや距離を取ってしかもいくぶん見おろすような位置にいるはずです。
海岸の様子は、岩場、あるいは岩場の点在する砂浜‥こんな感じでしょうか。
岩に寄せるうねりは、岩に激突し、白い飛沫となって砕け散っているでしょう。
そのたびに、足元をゆるがすような重低音を、作者は文字通り躰で聞いていたはずです。
背後は、林でしょうね。
とにかくたくさんの立木が凩に吹かれて枝や、ときには幹までを揺らしています。
ごうごう、びゅうびゅう、木々は音を‥凩の音を‥ときに強くときに弱く、脈動するように立てています。
作者は、背後にその音を背負っているわけですね。
木々を抜けた凩は、作者を吹きすぎ、海の表面を不規則に波立たせます。
ときに強くときに弱く、脈動するように‥。
この不規則性は、陸地の地形や木立によって気流が乱されているからです。
上下・左右・前後に乱れた気流は、海上のうねりの山を白く波立て、あるいは水面に風紋を描き、沖に向かって吹いてゆきます。
が、海上には気流を乱すような立木や、地形上の障害物は、何もありません。
ある距離を吹くと、陸上の障害物によって荒れ狂っていた凩も、ようやく安定した吹き方になって、海面を乱すこともなくなります。
ある一定の距離から向こうは、海の様子があきらかに違うんですね。
この句の「凩の果」って、このことじゃないかな?
そこで凩は、凩らしさを失い、安定した気流へと変貌しているはずです。
凩の吹く日に海面の様子を沖のほうまで眺めていると、それがはっきり解ります。
この空間的な把握が「凩の果」じゃないだろうか。
けど、背後や作者の周囲では、あいかわらず凩の音も、陸に打ち寄せるうねりの音も、消えることなく聞こえているんですね。
こういう状況じゃないのかな?この句。
そういう視点の知覚・経験世界の中にあって、言水はこの句を詠んだんじゃないのかな。
この句の「けり」は、明らかに大野 晋氏云うところの気付きの「けり」ですよね。
しばらくこの状況にあって、ある時点でこの状況が「凩の果はありけり」であることに気づいた、その感動だよね、この「けり」。
海面の様子として目に見える「凩の果」を発見した喜び、っていうかな‥その情動の「けり」。
それにかさね描きされる「海の音」‥静と動の対比ですよね。
この臨場感、迫力。
言水の当時は映画もテレビもなかったけど、俳諧の発句が持つ形式の力によって、読者はこの感動的な情景を文字通り知覚・経験できたんでしょうね。
だから、人口に膾炙し一世を風靡したんでしょう、この句。