秋黴雨
はてもなく瀬のなる音や秋黴雨 史邦
読み
はてもなくせのなるおとやあきついり
季は「秋黴雨」で秋。
中村史邦(なかむら・ふみくに)(生没年不詳)の俳諧の発句である。
格調高い響きを持った、発句の中の発句ですね。
すばらしい!!
音韻を見てみましょうか。
ha-te-mo-na-ku se-no-na-ru-o-to-ya a-ki-tu-i-ri
母音だけを取りだしてみます。
a-e-o-a-u e-o-a-u-o-o-a a-i-u-i-i
上五2音目から中七4音目にまたがった「e-o-a-u e-o-a-u」の反復、いかがです?
それにつづいて中七5音目から下五1音目の「o-o-a a」そして、下五のみに現れる「i」。
加えて、(詳しくやりませんが)子音の位置を見てもすごく音楽的です。
どう云えばいいんだろう?言葉が見つかりません。
素晴らしいとしか、云いようがない。
この音韻の配列、偶然だと思いますか?
もちろん、偶然なんかじゃありません。
史邦は、じゅうぶん意識してたと思いますよ。
だって、芭蕉に「句整はずんば舌頭に千転せよ」(去来抄)という有名な教えがあるんですものね。
俳匠たちにとって、芭蕉の言葉は神の言葉です。
あっと、展開するのを忘れるところでしたね。
この句の切字は「や」です。
「はてもなく瀬のなる音(や)」と「秋黴雨」のかさね描きです。
「はてもなく瀬のなる音(や)」この時点でもう、水かさを増して轟々と流れる川が、その音とともに立ち現れます。
それにかさねられて、いつ止むともしれぬ秋の長雨「秋黴雨」が、同一空間に立ち現れます。
いつ止むともしれぬ秋の冷たい蕭条とした長雨「秋黴雨」その憂鬱、やりきれなさ、そういう「情」が、水かさを増して轟々と鳴りやまぬ音を立てて流れる川に重ねられ、一方、水かさを増して轟々と鳴りやまぬ音を立てて流れる川の、不気味さ、不安、迫り来るもの、そういった「情」が、秋の冷たい蕭条とした長雨「秋黴雨」に重ねられるわけです。
あとはもうコトバで述べることができない世界ですね。
感じてもらうほかはありません。
こうして立ち現れた全き世界、それが史邦の視点「いま・ここ」です。
史邦の視点-この句の世界は、上に述べたように「情」に満ちています。
天地有情そのままの‥。
これが、切字「や」の働きである「かさね描き」です。(←秘伝なんですけどね)
なんか、圧倒されそうなくらいの迫力で迫ってきますよね、この情景。
与謝蕪村の
さみだれや大河を前に家二件
(さみだれやたいがをまえにいえにけん)
と双璧を成す句だと思います。
もちろん、この生き生きとした立ち現れが、上で見た音韻の配列に裏打ちされているのは、云うまでもありません。
で、ここで思ったんですけど、詩歌を意味でしか読まない人は「音」と直接叙するのは良くないんじゃないか、とか、かならず云うんですよね。
冗談じゃない。
あの音韻配列は確信犯ですよ、史邦。
あそこは「音」じゃなきゃいけない。
そういう人は、詩すなわち韻文は音韻即表現だってことを、知らないんですよね。
つまり、早い話が詩を知らないってことです。