百科全書の
前々回のつづきである。
話が抽象的になってきた。
が、もう一歩抽象的な領域に踏み込む必要がある。
そこはもう、哲学者の思考する領域。
が、話しについて行けない、なんてことはないよね。
抽象的思考は、なにも哲学者の専売特許ではない。
抽象的思考は、誰にだってできる。
等間隔に立ち並ぶ電信柱、ビルの窓、障子の桟、機械時計のメカニズムが立てる音、振り子時計の振り子の動き、カラオケの熱唱に合わせてする手拍子、メトロノームの音、機械が話す抑揚のない棒読みの日本語、月の満ち欠け‥‥‥
救急車のサイレン、人の二足歩行、一日、一週間、一年、一世紀、結晶中の分子配列‥‥‥
微細なものから、長大なもの。
理論概念であるパルスをかさね描くなら、パルスは、どこにでも存在する。
が、上に挙げたもののうちには、すでに構造を持ったパルスが含まれている、ことに気づいた方も、おられるのではないだろうか。
ざっと見て、機械時計のメカニズムが立てる音、救急車のサイレン、などはそのように思われる。
逆に、機械が話す抑揚のない棒読みの日本語は、パルスとは云えないのではないか、と、思ったのではないだろうか。
では、さらに詳しく見てみよう。
機械時計のメカニズムが立てる音を仮に、
コッチンコッチンコッチンコッチンコッチンコッチン
と描く。(ゲシュタルト崩壊を起こしそうになるが、耐えてほしい)
普通、我々はこれを「コッチン」の繰り返しとして聞いている。
が、もっと集中力を上げて聞くなら、これが「コッ」と「チン」より成っていることが判る。
コッ・チン|コッ・チン|コッ・チン|コッ・チン|コッ・チン|‥‥‥‥
このように聞くことができるのではないだろうか。
よって「コッチン」は「コッ」と「チン」を取り集めた構造体と云える。
注意してほしのは「コッ」も「チン」もパルスにほかならない、ということである。
パルスとは「等しい間隔による等しいものの反復」である-ならば「コッ」と「チン」は、等しくないではないか、と、云われそうである。
が、パルスは「有と無だけの始原の分節」である-ここまで抽象化すれば、その次元において「コッ」と「チン」は「等しいもの」である、のである。
空間と時間、一と多、理論概念としてのパルスとはこういう抽象的な次元のものなのである。(理論概念とはそういうものである)
(よって「機械が話す抑揚のない棒読みの日本語」もパルスである、というのはお解りいただけるだろう)
「コッチン」は「コッ」および「チン」というパルスの上に構築された構造体である。
この構造体「コッチン」もまた「等しい間隔による等しいものの反復」つまりパルスである。
このような「構造を持ったパルス」が「リズム」である。
つまり、リズムとはどこまでもパルスの上に構築された構造体なのである。
機械時計のメカニズムが立てる音
コッ・チン|コッ・チン|コッ・チン|コッ・チン|コッ・チン|‥‥‥‥
が、リズムとして聞こえてきたとき、それはまさに、パルスの上に構築された構造体を、リズムとして聞いているのである。
であるなら、救急車のサイレン「ピーポー」も
ピー・ポー|ピー・ポー|ピー・ポー|ピー・ポー|‥‥‥‥
という「リズム」として、聞こえてくるだろう。
音楽における、舞踏における、絵画における、オブジェにおける、詩における‥‥視・聴・嗅・味・触覚における‥‥(思考における、感情における)私達の経験(知覚)世界に存在するリズムとは、こういうものなのである。
今回はここまでです。
解ってもらえたかなぁ?という不安だらけなんですけどね‥
やらなきゃよかったかな?という後悔もあるんですけどね‥
まあ、後悔先に立たず、で、やっちゃったものはしょうがない‥
乗り越えなければならないハードルの一つだったし‥
越えられたかな?
どうだろう?
長き夜や百科全書の項の数 ousia
読み
ながきよやひゃっかぜんしょのこうのかず