岩端や
岩端や爰にもひとり月の客 去来
読み
いわはなやここにもひとりつきのきゃく
季は「月」で秋。
向井去来(むかい・きょらい)(1651~1704)の発句である。
この句の切字は「や」で
岩端や-爰にもひとり月の客
と、切れて「岩端(や)」は「爰にもひとり月の客」にかさね描きされる。
物理学的世界において、同時間同空間に異なる物質が存在することはない。
が、かさね描きされ立ち現れる詩空間に、その法則は作用しない。
かさね描きするもの、かさね描きされるもの、両者はピタリと同時間同空間に文字通りかさね描きされるのである。
そこでは、かさね描きするもの、かさね描きされるもの、両者に“存在干渉”とでも云うような現象が起きる。
「岩端」は、一人の風流子の存在する月下の岩端、という相貌を帯び‥。
「月の客」は、岩端という眺望の開けた場所に観月の場を選定した者、という相貌を帯びる‥。
こうして立ち現れるのが、この句の世界である。
このように述べると、なにか「かさね描き」が、過程のある、時間を要する、もののように思えるが、「かさね描き」は無時間的に、ほとんど一瞬のうちに起こる。
「ほとんど」と云うのは、句によって、一瞬に「かさね描き」は起きるのだが、その立ち現れる世界が朦朧としていて、何度かくり返して句を読むうちに、靄が晴れるように、鮮明な眺望が開けてくる、というようなことがあるからだ。
この場合でも「かさね描き」は、一瞬のうちに起きている。
さて、この句には有名な、『去来抄』に記された芭蕉と去来の対話があるので、引く。(読みやすいように書式を変えた)
先師上洛の時、
去来曰く「洒堂はこの句を〈月の猿〉と申し侍れど、予は〈客〉勝りなんと申す。いかが侍るや」
先師曰く「〈猿〉とは何事ぞ。汝、いかに思ひて作せるや」
去来曰く「明月に乗じ山野吟歩し侍るに、岩頭また一人の騒客を見付けたる」と申す。
先師曰く「〈ここにもひとり月の客〉と、己と名乗り出づらんこそ、幾ばくの風流ならん。ただ自称の句となすべし。この句は我も珍重して『笈の小文』に書き入れける」となん。
予が趣向は、なほ二、三等もくだり侍りなん。先師の意を以て見れば、少し狂者の感もあるにや。
拙いが、意訳を試みてみる。
去来「〈岩端や爰にもひとり月の客〉という発句なんですが、洒堂(去来と同門)は下五には〈月の猿〉と置くのが良いと云うのですが、私は〈(月の)客〉のほうが勝るだろうと反論しました。翁(芭蕉のこと)よ、いかがでしょうか」
芭蕉「〈猿〉とは何事だ、論外だね。おまえは、どういうつもりでこの句を詠んだんだね?」
去来「明月の美しさに乗じ、山野を詩を吟じながら散策しておりましたとき、とある岩の端に、私と同類の明月の美しさを愛でる一人の物好きを見付けた、という次第です」
芭蕉「この句は〈ここにもひとり月の客〉と、作者みずからが名乗り出たということにしてこそ、いくらか俳諧といえるだろうね。ほかでもない、自称の句にするのが良いね(後略)」
まあ、こんな感じだろうか。
長くなってしまった、つづきは次回ということにさせていただく。