山伏の
山伏の火をきりこぼす花野かな 野坡
読み
やまぶしのひをきりおこすはなのかな
季は「花野」で秋。
志太野坡(しだ・やば)(1663~1740)の発句である。
これも、一気に世界が立ち現れる句だ。
いかがだろうか。
以下は蛇足かもしれない。
この句は、前々回に取りあげた朱拙の「網打の肱なげちらす月夜かな」と同じ切れの構造を持っている。
「かな」は、脇に向かって切れ、句じたいは
山伏の火をきりこぼす-花野かな
と、切れている。
「山伏の火をきりこぼす」に「花野(かな)」が、かさね描きされるのだ。
語句は、それほど難しくないと思うが、念のために‥。
「山伏」は修験者と見て間違いない。
「火をきりこぼす」は火打ち石と鉄片を打ち合わせて火を熾すとき、火口(ほくち)へ火花が飛び散る様子を云うのだろう。
「花野」の説明としては、松永貞徳『御傘(ごさん)』の記述に心引かれる。
“正花にあらず、秋の草の花なり。薄(すすき)、萩など、同意なり。付くべからづ”
「正花」とは、連歌・俳諧・俳句で単に「花」と云えば桜のことで季は春、そのことを指している。
それに対して「花野」の「花」は「秋の草の花」である、ということ、「花野」は「秋の草の花」の咲き乱れる「野」を云う。
「薄、萩など、同意なり」というのが興味深い。
「花野」を詠んだ句には「薄、萩など」を詠んだ句を付けてはいけない、なぜなら、それは「同意」である、という。
「花野」に「薄、萩など」が咲いているのは、云うまでもないことで「花野」と云えば、すでにそれだけで「薄、萩など」の咲いている野が立ち現れてくるのは当然、ということなのである。
これで少なくとも「花野」から「薄、萩など」の咲く野は、想像できるだろう。
ここからは感覚に属することなので、異論もあろうかと思うが、ひとつの例として述べておく。
萩、薄、のほか、「山伏」に似つかわしく思える秋の草花は、ほかに何があるだろうか。
葛(くず)の花、虎杖(いたどり)の花、男郎花(おとこえし)、灸(やいと)花、など似つかわしく思える。
色彩の取り合わせで云えば、露草、水引草、桔梗(ききょう)、竜胆(りんどう)など、合うように思う。
逆に、女郎花(おみなえし)、吾亦紅(われもこう)、野菊などは情趣的にも、色彩的にも「山伏」には合わない気がする。
萩、薄、葛の花、虎杖の花、男郎花、灸花、露草、水引草、桔梗、竜胆、たくさん出てきたが、桔梗、竜胆を除けば現代でもごく普通に見られる秋の草花である。
都市にお住まいの方でも、少し郊外に出かけるなら、これらに出会うのはそんなに難しいことではない、と思うのだがいかがだろう。
日本は南北に長い、よって沖縄や北海道にお住まいの方にご意見を伺いたいところだが‥。
これらの草花を実際にご覧になったことのある方は、その記憶を総動員して「花野」の映像を合成してみてほしい。
それに成功するなら、私に立ち現れた「花野」と、それは、そんなに大きく異なることはないと思う。
「花野」は、日本の秋にありふれた風景なのである。
これが以前お話した、季語の持つ普遍性である。
この普遍性は、人と人をつなぐ。
同時代は云うに及ばず、時を越えて、過去・未来の人たちとも、この普遍性は共有できる。
ただし、地球規模の気候変動が起きなければ、の話だが。
話がすっかり横道に逸れてしまったようだ、きょうはこれにて。