今うをの
俳諧の発句における「切字」または「切れ」の働きである「かさね描き」だが、説明として記述した場合、さも過程のように見えるだろう。
が、これは、ほとんど一瞬に起きるのである。
以前にも書いたし、例外もあるのだが、俳句にこういうことはまず起こらない。
俳句を鑑賞する場合は、私もさまざまに想像をめぐらす。
作者の心情や、作品に込められた意味を読み取ろうとするのだ。
すべてとは云わないが俳諧の発句には、こちらが想像のつばさを羽ばたかせようとする間もなく、瞬時に、自動的に、(句の)世界がみずから展開する、そういう発句がたくさんあるのである。
この違いは何なのか。
ずっと考え続けてきて、ほぼ見通しは付いているのだが、それを記述する適当な用語法がみつからない。
それに、それを一気に語り尽くす媒体として、ブログは向かない。
ブログでやるなら、ジグソーパズルのピースを一個一個切り出すように小さな記事をコツコツと根気よく積み重ねるしかない。
実は、今までもそうしてきたつもりである。
今まで切り出したピースを組み上げるなら、かなり見通しは利くはずなのである。
とはいえ、現代人はあらゆる意味で忙しい。
とても、そんなピースを組み上げている暇など、ありはしないだろう。
それに、消費することに慣れてしまった現代人にとって、ブログは読み捨てにするものなのだろう。
それも良いと私は思う。
それはそういうものなのだと私は思う。
ただ私は、自分の根気が尽き果てるまで、ジグソーパズルのピースをコツコツと、切り出し続けるまでである。
今うをの跳ねたる音や露葎 ousia
読み
いまうおのはねたるおとやつゆむぐら