角力になりぬ | 俳諧伝授

角力になりぬ

脱すてゝ角力になりぬ草の上  太祗


読み
ぬぎすててすもうになりぬくさのうえ


季は「角力」で秋。


炭 太祗(たん・たいぎ)(1709~1771)の発句である。


句意は平明、解説の必要もない。


よって、以下は例によって蛇足である。


「ぬ」完了の助動詞
「なりぬ」→「なってしまった」

角力・相撲(すもう)
本来は神事と関係の深いもので、宮廷では初秋の行事として、相撲節会(すもうのせちえ)があった。諸国から集めた相撲人(すまいびと)を内取(うちどり 練習相撲)のうえ秀手(はて 力士の最上位、今の大関)を選定した。年の豊凶を占う神事で今は大相撲興行が単なる興行と化しているが、神社その他の祭礼で行なわれる「宮相撲」・「草相撲」・「辻相撲」は、素人の相撲で、秋祭のころに行なわれることが多い。(中略)季題としては、もちろん国技大相撲を詠むべきではない。(傍題省略)
〔山本健吉『最新俳句歳時記』〕


私達は「相撲」といえば、ただちに「(国技)大相撲」を思い浮かべる。


ご承知のとおり、現在の大相撲は奇数月に各場所が開催され、秋季だけのものではない。


にもかかわらず「相撲・角力」が秋季なのは、上のように相撲節会、宮相撲・草相撲・辻相撲などに由来する。


上掲句は、その草相撲ですらない、たまたま「角力」になってしまったまでである。


何時の世も、身の内の活力を持て余しているのは若者達、べつに角力を取るためにこの草原(くさはら)に来たのではないが、天地に満ちる秋気に誘われ「一丁、角力でも取ろうや!」という次第なのである。


前々回の去来句の記事に書いたが、まさしく「爽やかな風の中、思い切り身体を動かすのは、秋ならではの快感のひとつ」であれば、その意味でこの句は「相撲節会、宮相撲・草相撲・辻相撲」などの既成の季語の季節感によらずとも、この句独自の世界が独り立ちして秋の光景そのものである。


これは、太祗の詩作者としての力量である。


季語の意味を離れて季節感を出すなど、文字通りの離れ業で、それをこうもさりげなく実現してしまうとは、ほとほと非凡だと私は思う。


蛇足の蛇足


この句の切字は「ぬ」で、かさね描きの働きをしている。


見てのとおりこの句の場合は、着物を脱ぎ捨てて角力になってしまった若者達と「草の上」で想起される秋の草原のかさね描きである。


また、「ぬ」は、完了の助動詞なので「角力」になってしまうまでの過程も、あたりまえに想起される。


そういう意味では、現在と過去のかさね描きでもある。


「草の上」で想起される秋の草原、と書いたが、このさりげなく下五に置かれた「草の上」が曲者だ。


「草の上」自体は季語ではない。


が。歳時記を見てみれば「草の花」「秋草」「草の香」「草の実」「秋の七草」などと「草の上」という言葉から当然想起される秋の季語が、ごろごろ並んでいるのが判る。


秋季を代表的する「花野」という季語さえ、視野に入ってくる。


つまり、この「草の上」で見えてくるのは唯の草原ではないのである。


尾花・萩・女郎花・吾亦紅・野菊・桔梗・曼珠沙華・竜胆・露草などなど、挙げ始めれば切りがない数々の秋の草花が咲き乱れる草原なのである。


これも、太祗の詩作者としての非凡な力量のなせる業であるのは云うまでもないし「既成の季語の季節感によらずとも、この句独自の世界が独り立ちして秋の光景そのものである」というのは、これにもあてはまる。


「草の上」は季語ではない。


あっ!云いわすれるところだったが、脱ぎ捨てた着物が、ふわりと秋の草花の上に落ちる、というのも見逃せない映像である。


‥まったくとんでもない人だ、炭 太祗、あなたは。