作者と読者の位置
送り火や顔覗あふ川むかひ 太祗
なんですが、私の拙い筆力ではこの句によって立ち現れる世界をうまくパラフレーズできなかったんじゃないかと思って、ヘコんでいます。
私に絵が描ければ、絵に描いて、映画が撮れれば、映像にしてご覧にいれたい。
それくらい、鮮明に細部まで情景が立ち現れてくるんですね、この句。
太祗の視線と、読者である私の視線は、ピタリとひとつになって、太祗の目で私は見ているし、太祗の耳で私は聞いている、太祗の五感は私の五感であり、太祗が感じるように私も感じることができます。
まあこれは、たんなる私の思い込みなんでしょうけど‥。
ともあれ、自分で見ているのですから、書こうと思えば細かい部分まで書けてしまいます。
これなんですね、俳諧のすごさは。
子規以降の文学俳句だと、こうはいかない。
作者はかならず、開かれた作品世界の向こうに居る。
作者の視点と私の視点がひとつになる、なんてことはない。
読者である私は、作品世界の向こうに居る作者の心情を、推し量ることしかできないんですね。
この違いは、おそらく自我の在り方の違いなんでしょうね。
自我とか世界とかの在り方の違い。
こうなるともう、哲学の領域です。
でも、そこまで踏み込んで語らないと、俳諧と俳句の違いは鮮明にならないのかもしれません。
地上這ふテールライトや盆の月 ousia
読み
ちじょうはうてーるらいとやぼんのつき