目にさや豆の
秋来ぬと目にさや豆のふとり哉 大江丸
読み
あききぬとめにさやまめのふとりかな
大友大江丸(1722~1805)の発句である。
さや‐まめ【莢豆】
莢に入ったままの豆。ダイズやエンドウなどについていう。
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]
この句はもちろん、藤原敏行「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」の歌の「さやか」に「さや豆」の「さや」を掛けているのである。
一見、修辞上の技巧が目立つ。
が、作者は「さや豆のふとり」にかすかな秋の到来を見たのであり、実感はここにある。
風流と云えば風流、たわいないと云えばたわいない。
大江丸は飛脚問屋として財を成した人だそうだが、そういう人が、たかが「さや豆のふとり」にたわむれているのである。
しかもそこにかすかな秋を感じ取り、雅な和歌まで思い浮かべている。
俳諧の意味をよくわきまえていなければ、こうはいかない。
いかにも俳諧らしい俳諧、俳諧味にあふれた俳諧である。
むろん、私の云う“俳諧の笑い”がある句であるのは云うまでもない。
くどいようだが、この句の俳諧は「さや豆のふとり」のほうにあるのであって「さやか・さや豆」の掛詞にあるのではない。
掛詞に引っ張られると、この句は滑稽で浅薄なものにしか見えなくなる。