あまた蚊の
あまた蚊の血にふくれ居る座禅哉 太祗
読み
あまたかのちにふくれいるざぜんかな
季は「蚊」で夏。
炭 太祗(1709~1771)の発句である。
「居る」は「いる」とも「おる」とも読めるが、この句の場合は「いる」である。
○居る ヰル
〔ワ行上一段活用自動詞〕
2)(鳥などが)じっとしている。とまる。
〔角川『全訳古語辞典』〕
漱石の俳句論に倣い、暗示された連想の世界を構築してみよう。
「座禅」から禅僧を連想するのは、たやすいだろう。
座禅中の禅僧の肌が露出している部分に、たくさんの蚊が、彼の血を腹一杯に吸って膨らみ、とまって、じっとしているのである。
足と云わず、手と云わず、首筋と云わず、顔と云わず、青々とそり上げられた頭にさえ、である。
「あまた蚊の」からは、そう(足と云わず‥‥‥)連想できる。
これでもう、一つの光景が見えてきたと思う。
ここからは、形式の働きで見てみよう。
血を吸って丸々と膨らんだ蚊にまみれ、結跏趺坐(けっかふざ)した禅僧。
半眼にとじた眼。
ぴんと伸びた背筋。
蚊まみれであるにもかかわらず、彼は微動だにもしない。
否、むしろ、彼の表情は穏やかでさえある。
その表情が、穏やかであればあるほど、血を吸った蚊の血なまぐささが目に立ってくる。
座禅とは、なんと壮烈なものか。
これは「座禅」に付けられた「哉」という「切字」の働きである。
俳諧は、解釈即創造である。
上に書いたのは、私の解釈にすぎない。
あなたはこの句を、どのように解釈するだろうか。
解釈というコトバには受身のニュアンスがある。
が、俳諧の解釈は、常にアクティブ-創造的であり、かならずしも作者の意図を目指さない。
俳諧の解釈には、作者の意図も含め、すぐれた解釈と、そうでない解釈が存在するだけである。
と、ここまで書いてふと思ったのだが、現代の座禅もこの句のとおりなのだろうか?
まさか、電気蚊取器とか使ってないとは思うが‥。