水練の
水練の師は敷草のすゞみ哉 太祗
読み
すいれんのしはしきくさのすずみかな
季は「すゞみ」で夏。
炭 太祗(1709~1771)の発句である。
炭 太祗、上手い、ほんとうに上手いと思う。
この上手さには、芭蕉も舌を巻くことだろう。
たった17音に、これほどの世界をたたみ込んでしまうとは‥。
まさに“驚異の詩型”の驚異を見る思いだ。
なにはともあれ、たたみ込まれている世界を、展開してみよう。
私が、この句を読んでいて「師は敷草の」まできたとき、いきなり、水しぶきが見え、子供達の歓声が聞こえてきた。
詩の世界は、一気に展開した。
むろん、意味的に云えば「師」は「弟子」の存在を示唆してはいる。
が、
すいれんのシはシきくさのすずみかな
この「シ-シ」が、詩の形式-音声効果として働いたのも、紛れもない事実だろう。
この句の世界を現代的に云えば、子供達を集めての水泳教室の一コマである。
(水練は武道の一つ、愛媛県の大洲というところには、今も古式泳法が継承されている)
場所は、もちろん河原ということになる。
この「師」は、若先生だろう。
黒澤明の映画『赤髭』に出演したころの、加山雄三を思い浮かべるのが良いかもしれない。
ひとしきり、泳法の指南があって、若先生は自ら手本も見せただろう。
子供達は、真剣な眼差しで若先生の講義を聴き、泳法の手本を食い入るように見ていただろう。
やがて、実技指導が開始され‥。
若先生は、子供達に手取足取り教えたことだろう。
実技指導がおわれば、
「よし、あとはみんな自由に泳いでいいぞ!」
となる。
子供達は、待ってましたとばかり、歓声をあげて泳いだり、水遊びしたりし始めたに違いない。
若先生は、土手の木陰かなにかに移動し、近くにあったヨモギかなにかを引き抜いて敷き草にし、濡れた身体を手拭いで拭きながら、水しぶきを上げ、歓声を上げなら無心に遊ぶ子供達を、見守っているのである。
その若先生の様子が、いかにも涼しげだったのだろう。
しばらくまえからその光景を見ていた太祗は、懐の句帳を取り出し、腰の矢立の筆を抜いて「水練の師は敷草のすゞみ哉」と書き付ける。
空はあくまで青く、遠くの山には入道雲が湧き上がっていただろう。
以上ごくごく簡単に、17音にたたみ込まれていた世界を展開してみた。
それでもこれだけの分量になる。
詳しく書けば、この十倍は軽く行くだろう。
くどいようだが、もとはたったの17音である。
“驚異の詩型”恐るべし。
その潜在能力を顕在化させる炭 太祗の力量、恐るべし、である。