夏座敷
行雲を寝て居て見るや夏座敷 野坡
読み
ゆくくもをねていてみるやなつざしき
季は「夏座敷」で夏。
志太野坡(しだ・やば 1663~1740)の発句である。
なつ‐ざしき【夏座敷】
夏、襖ふすまや障子をとり払い、簾(すだれ)や簀戸(すど)などで涼しそうに装った座敷。
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]
こんにちの夏の暑さへの対処法は、主にクーラーで物理的に気温を下げることだろう。
が、クーラーなどというものが普及する前は、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚などの感覚に訴える方法で暑さに対処したものだ。
つい数十年前には、どこの家だってそうしていただろう。
上掲句は、その頃を思い出していただくなら、実感をともなったイメージも立ちやすいと思う。
いかにも涼しげにととのえられた夏座敷に、ごろりと寝転がり、雲の流れゆくのを見ている、ただそれだけの句意だ。
しかし、これがたとえば春の座敷だったり秋の座敷だったり冬の座敷だとしたら、どうだろう。
いかにも気持ちよさそうに、くつろいでいる、というこの句の持つ独特の情感は出てこないのではないか。
春の座敷だと、どこかうきうきしたような気持ちの弾みがあるだろう。
秋の座敷だと、どこか一抹の寂しさが漂うだろう。
冬の座敷だと、ぴーんと張りつめたような厳しさがあるだろう。
「行雲を寝て居て見る」が「夏座敷」にいかにマッチしているか、ということである。
野坡は、『俳諧七部集』のうち芭蕉の「かるみ」を具現したといわれる『炭俵』を共編している。
この発句、句意は軽いが、その開かれる詩の世界は、裏から堅固に支えられているのである。