ミニ俳句講座(仮題)3
私は“発句の当座性”という概念を提唱したい。
この概念で、“驚異の詩型”の四要素、五七五、切字(切れ)、季、格、のうち“季”と“格”は、明快に説明可能ではないだろうか。
“格”については、2で述べた。
では、“季”はどうか。
発句は、興行のその場で詠むことが基本だ。
あらかじめ作られ用意された句は、“孕み句”とよばれ当座性を損なうものとして忌避されたのである。
斎藤徳元(1559~1647)『俳諧初学抄』にこうある。
“いかなる作者たりといへ共、其座に至りて前栽などの花紅葉に付、又は何にてもめづらしき事侍らば、兼ねてのはらみ句よりも、当意即妙の句を希(こいねがう)べし。挨拶もまさるべからんや”
つまり、その場の前栽(前庭の植え込み)の花や紅葉など、目新しく愛すべきものがあれば、それをを詠み込んだ句が「当意即妙の句」であり、孕み句よりも良しとされたのだ。
これは“格”に関わると同時に、発句がなぜ“季”を詠み込んだかの理由でもあるだろう。
発句における“季”は、当座性の証明でもあるのだ。
発句に、二種類あることは前に述べた。
俳諧の連歌の巻頭句としての文字通りの発句と、俳諧の連歌の巻頭に置かれず、それ単独で『選集』や『発句集』などに収録された発句と。
前者を立句(たてく)と云い、後者を地発句(じほっく)と云う。
地発句を詠む場合に置いても、“発句の当座性”は強く意識されていたであろう。
地発句は、当座において即興で立句を詠むための訓練、という側面があったからである。
当座性は、公共性と言い換えてもいいだろう。
座は、個人の集まりとは云え公共に属するものだ。
俳句は個人を志向し、発句は公共性を志向する、である。
これまで縷々述べてきたのでお解りと思うが、俳句と発句では、志向する向きがまったく逆なのである。
私は、あえて俳句に当座性(公共性)を志向しようと思っている。
(このことについては、別の機会に詳しく述べようと思っています)
これは、異端にほかならないのではないか。