「ミニ俳句講座(仮題)」序
俳句は、“驚異の詩型”である。
私はそう思っている。
あのカワイイ17音という形からは想像もできない、外見とは裏腹な、とんでもない表現力を秘めている。
この詩型は、連歌の発句であった時代から、このかたち(五七五単独)で『発句集』として残されている。
ただ単に(連歌の)発端の句、というだけなら(それ単独の)『発句集』のあることは不自然だろう。
やはり、特別の詩型として、意識されていたのだろう。
五七五、切字(=切れ)、季、格、この要素を持つ詩型が“驚異の詩型”であることに連歌師達は気づいていたのではないか。
俳諧師たちについては、云うに及ぶまい。
正岡子規が、このこと(“驚異の詩型”)に気づいて発句を(俳諧の)連歌から切り離したとしたなら、それは慧眼と云えるだろう。
が、俳句が脇~挙句までの句を切り捨てたことによって、“五七五、切字(切れ)、季、格”のうち、“格”が真っ先に忘れ去られた。
続いて、“切字(=切れ)”が軽視されるようになった。
“季”は“当座の季節の景物”という意味を失い、“季語”とよばれる記号になってしまった。
五七五だって、危ういものだ。
“驚異の詩型”は背骨を抜き取られ、ふにゃふにゃとした気味の悪いものに変貌しつつある。
“驚異の詩型”は“五七五、切字(切れ)、季、格”を持つがゆえに“驚異の詩型”たりえたのだが‥。
私は“驚異の詩型”としての俳句を、愛して止まない。
以上が私の俳句観である。
こんにちの俳句界にとって、これは異端かもしれない。
「ミニ俳句講座(仮題)」を始める前に、これだけはどうしても述べておかなくてはならないと思った。
なぜなら、私の書くことを鵜呑みにするなら、それは即、異端につながる危険をはらんでいるからである。
とまあ‥、能書きはこれくらいにして、突発的かつ不定期に、はじめてみようかな?
石鎚は峰を秘めたり梅雨の雷 ousia
読み
いしづちはみねをひめたりつゆのらい
いしづち‐さん【石鎚山】
愛媛県東部、石鎚山脈の主峰。標高1982メートル。面河(おもご)川が南流し、面河渓をつくる。修験道の霊場。四国第一の高峰。石槌山。天狗岳。
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]