俳諧のこと
TVのお笑い番組で漫才やコントを見ていてつくづく思う、これって俳諧だなぁ、と。
以前「俳諧の意味」のタイトルで書いた記事を思い出していただきたい。
【俳】
ハイ
たわむれる・わざおぎ
形声
声符は非(ひ)。〔説文〕八上に「戯れるなり」とあり、もと二人相戯れて演技したものであろう。〔荀子、王覇〕に「俳優侏儒(はいゆうしゅじゅ)」というように、障害者たちが多くその役を演じた。それで遊戯することを俳といい、その人を俳優という。優は憂愁を原義とする字。俳は俳諧で喜笑を主とし、優は悲劇を意味する字である。(後略)
〈白川 静『字統』〉
【諧】
カイ
ととのう・あう・やわらぐ
声符は皆。カイは祝祷(しゅくとう)して神に祈り、神霊が相伴うてたちあらわれることをいう。それで和諧(わかい)の意となる。〔書、尭典〕「克(よ)く諧(やわ)らぐるに孝を以てす」〔舜典〕「八音克く諧(ととの)ふ」〔周礼、調人〕「萬民の難を司(つかさど)りて、これを諧和することを掌(つかさど)る」のように用いるが、本来は神霊を安んずることをいう語であった。(後略)
〈同上〉
俳には「二人相戯れて演技した」諧には「神霊が相伴うてたちあらわれる」という意味が含まれている。
とくに俳は、こう云っては大胆すぎるかもしれないが、こんにちの感覚で二人組の漫才・コントと考えて差し支えないように思われる。
それに、俳諧の連歌は興行されるものであった。
今の感覚では、イヴェント、ライヴ、というところか。
俳諧の連歌は、現代のお笑いのなかで云えばさしずめ「笑点」の「大喜利」が近いだろうか。
「大喜利」の出題者(回答の巧拙の判定者でもある)は、座を捌く俳諧宗匠。
回答者は、句を付けて行く連衆(れんじゅう)と云ったところか。
むろん、俳諧の連歌の場にも、観客は居たようだ。
こう見ると、俳諧は文学というより芸能の要素を多分に含んでいたことが判る。
むろん、俳諧の連歌のスタイルには種々あるのだが、基本的には庶民の娯楽として興行されたものだと思って間違いないだろう。
句は朗誦され、執筆(しゅひつ-書記)によって文台の懐紙に記録された。
これを編集、出版したものが『俳諧七部集』などの俳書である。
よって我々は、俳諧の連歌を文字をとおして読む。
そこには、ライヴの熱狂も興奮も、実感としては無い。
芭蕉に次の言葉がある。
「文台引き下ろせば、すなはち反故(ほうぐ)なり」(服部土芳『三冊子』)
栗咲くや日に三便の停留所 ousia
読み
くりさくやひにさんびんのていりゅうしょ