俳句のこと(長文)
前々回、ブログと俳諧は似ているという話をした。
では、俳句はどうなのか、というのが今回の話だ。
作者=読者、というのがブログと俳諧の共通点であった。
私は、西洋渡来の「literature(文学)」という概念によって俳句の近代化がなされたと、くどくど書いてきた。
これは正確に云うと、それまでの「俳諧」が近代化され「俳句」が生まれた、となる。
まずは以下に示す、小西甚一『俳句の世界』からの引用を見てほしい。
“そもそも、正式連歌から俳諧連歌にいたるまで、共通の特色がふたつある。その第一は、作る者と享受する者とが同じグループの人たちであること、第二は、それを制作ないし享受するため特殊の訓練が要ることにほかならない。
平安時代以来、作る者と享受する者とがはっきり別である種類のわざは藝術にあらずとする意識が、根づよく存在した。もちろん、その反対は、藝術なのである。いまわたくしたちは、画や彫刻を藝術だと意識する。しかし、それらは、昔の人たちにとっては、けっして藝術ではなっかった。それらは工芸品にすぎず、その作者たちは工(職人)なのである。かれらにとっての藝術は、書であった。書の巧みな人は、りっぱな芸術家として尊敬された。なぜなら、書を享受する人は、同時に書を制作する人だからである。和歌も藝術であった。和歌を作る者が、同時に和歌を享受する人だからである。しかし、物語(小説)は、藝術でない。なぜなら、自分で物語を作る者だけが物語を享受できるとは決まっていないからである。その意味において、俳諧は藝術であることができた。俳壇は、作者兼享受者である人たち―巧拙は別として―によって構成されたからである。したがって、大作『南総里見八犬伝』の著者曲亭馬琴は「戯作者」にすぎなかったが、くだらない句をたくさん生産した井上士朗は「宗匠」として、馬琴よりも資格が上だったのである。”
もうひとつ、小西甚一『日本文学史』からの引用も見てほしい。
“西洋的なものが日本文藝におよぼした最大の影響は、literatureという概念である。中世において、本格的な文藝―第一藝術―と意識されたのは、表現者と享受者が同圏内に在るような種類のものであった。表現者が享受者と切り放された種類のものは、文藝ではなかった―あるいは第二藝術であった―。だから、和歌は第一藝術であり、物語は第二藝術またはそれ以下でしかなかった。ところが、西洋的なliteratureの意識においては、表現者と享受者の分離したものこそ第一藝術であり、両者が同じ圏内に在る自給自足的作品は、逆に、第二藝術なのである。その結果、小説が文藝の王座を占め、和歌や俳諧は第二藝術となった。和歌や俳諧が第一藝術であろうとすれば、従来の在りかたを清算し、小説と同様の表現理念をもたなくてはならなかったのである。まさに、コペルニクス的転回だといってよい。”
俳諧の近代化は「表現者と享受者の分離したもの」を目指したはずなのだ。
俳句は「表現者と享受者の分離したもの」として生まれ変わったはずなのだ。
「俳句は文学の一部なり(『俳諧大要』)」と考えた正岡子規は、そうしたかったに違いない。
が、そうはならなかった。
ブログや俳諧と同じく、今日の俳句界も「表現者と享受者が同圏内」にある。
俳句を作らない人が俳句の熱心な読み手である、ということはほとんどない。
むろん、皆無とは云えない。
新聞の俳句欄を楽しみにしている人は、居るかもしれない。
が、俳句総合誌はどうか。
俳句総合誌の一般読者は、微々たるものだろう。
俳句は、連句を切り離した、が、「表現者と享受者が同圏内」は、結果的に継承したのだ。
が、これは決して悪いことではなかったと、私は思っている。
「literature(文学)」という概念などに、こだわる必要はないと思う。
俳句に文学性を求めるなど、はじめからピントのずれたカメラで撮影して、ピントが合わないと云っているに等しいのではないか。
俳諧は、作者=読者ゆえに読者参加型の文芸であった。
ブログも、作者が読者となり、読者が作者となるようなエキサイティングな世界だ。
メディアの双方向性が話題となる今日。
その先駆けとも云える俳諧から、俳句はもっともっとた沢山のものを継承すればいいのだ。
作者から読者への一方通行ではなく「双方向性」こそ楽しけれ、である。
あをあらし龍馬の如く歩み行く ousia
読み
あおあらし(青嵐)りょうまのごとくあゆみゆく