事象そのものへ
「事象そのものへ」これは現象学の創始者エドムント・フッサールによる現象学のテーゼだが、芭蕉を転回点として起きた俳諧の変貌を読み解くキーワードでもある。
それまで、典拠・縁語・掛詞にたわむれ、相和し、調和してきた俳諧は、芭蕉登場の直前あたりから、事象そのものへたわむれ、相和し、調和しはじめる。
(典拠への俳諧は、継承されることになるが)
つまり、ある決定的な作句態度の変換がなされたのだ。
前回の徳元の「あきなひか」の句など、転回点へと俳諧が動き出したことをまざまざと見せてくれる。
掛詞を用いつつも、作者は事象そのものへたわむれ、相和し、調和しようと試みている。
芭蕉と交流し、蕉風開眼に大きな影響をあたえたとされる伊東信徳(1633~1698)の句を見てみよう。
六月や水行く底の石青き 信徳
読み
ろくがつやみずゆくそこのいしあおき
季は「六月」で夏。
この句の六月は、むろん陰暦の六月、暑さも盛りの頃だ。
どうだろう、事象そのものへたわむれ、相和し、調和している作者が、彷彿としませんか?
雨の日の草うつくしく刈られけり ousia
読み
あめのひのくさうつくしくかられけり