藤田が宗教画を描いたのは、1949年に追われるようにして日本を去り、フランスに定住して洗礼を受けた1955年以降の晩年のことだと思われがちですが、実は1920年代前半に乳白色の肌の裸婦で一躍スターとなる前にも、かなりの数の宗教画を描いています。この頃の藤田の宗教画はのちの達者な線描の画風とは大きく異なり、プリミティブなよそおいの暗く陰鬱なものでした。そして、この暗い画風は、黒田清輝のいわゆる外光派が主流をなしていた画壇からはまったく評価されていませんでした。
戦後、戦争画制作の責任を一身に背負わされ、日本を離れることを余儀なくされた藤田でしたが、その初期から本質的に日本画壇とは相容れがたい宿命を背負っていたのかもしれません。
晩年の藤田の宗教画はすべてを達観しつつあった画家が、それまでの長い画業のなかで自家薬籠中のものとしてきた様々なモチーフを、自由気ままに登場させるステージとなった感があります。そんな彼の宗教画については信仰心がないといった批判もありますが、それは至極当然のことで、彼の宗教画はキリスト教への敬虔な信仰心の表現というよりは、波瀾万丈の生涯の末に画家藤田がたどりついた藤田にしか創造できない心のユートピアの顕現なのです。
したがって、彼の母子像はマリアとキリストというより、ときに慈母観音像をより強く感じさせることがあります。日本国籍を捨て、カトリックの洗礼まで受けた藤田ですが、その本質において彼はやはり日本人を捨てきれなかった証左ではないでしょうか。

「生誕 於巴里」1918





