度々見舞われる豪雪と地滑り。
こんなにも自然災害が多発する地域にどうして人は住み続けるのか?
地滑り資料館の1階展示室に並べられた災害の記録からはそんな感想しか浮かんできませんでした。が、それが決して一部地域の出来事ではないことも見て取れます。
地震も津波も洪水も、結局日本のどこに住もうが災害からは逃れられません。
しかしまた自然がいつも人に牙を向くわけでもなく、それを補うほどの恵みをもたらしてくれてることは確かなのです。
いやただ運が巡ってくるのを待っていただけではありませんね。
自身が置かれた厳しい環境の中で人々は生きる術を模索し、多くの犠牲を払いながらも努力と知恵をもって戦ってきたんです。
しかし鎌倉時代の人々が暮らすにはあまりにもそれは辛い困難を伴うもので、もはや神仏にすがるしかどうしようもなかったことはいざ崩れた大地を眼前にすれば容易に察せられます。
信州から山を越えてこの里を訪れたお坊さんは村人の苦境を目の当たりにして自分が生きてきたのはこの為だったのだと悟ったのかもしれません。
2階には猿供養寺に伝わる伝説が書かれたパネルが掲示されていました。そこに書かれていた人柱伝説とはだいたいこんなお話です。
昔々 旅のお坊さんが信濃の国(長野県)から黒倉山を越えて越後の国(新潟県)に入った時の事。峠の上で偶然大蛇たちの悪だくみを聴いてしまいます。
大蛇たちはこの土地に”おおのけ”(地滑り)を起こして池を作りそこを住処にしようというものでした。
しかしその企みは”四十八叩きの秘法”で防ぐことができる
お坊さんは恐ろしくなり逃げ出そうとしましたが、大蛇に見つかってしまいます。が、村人に決して口外はしないとの約束の上でなんとか開放されました。
あまりのことに道中気を失っていたお坊さんを助けてくれたのは村娘の”おすみ”でした。
村に連れていかれたお坊さんが聞いたのは村人たちの深刻な悩みです。毎年この村では雪解けの頃になると“おおのけ”が起こり田畑や家が流されてしまう。もうこの土地では生きていけない。それを避けるには山の神に生贄を捧げるしかない。
お坊さんは助けてくれた”おすみ”が人柱にされると知り、”四十八叩きの秘法”を村人たちに教えてしまいます。
そして自分もこうなったからは生かしてはもらえないと覚悟を決め、工事が終わるまで祈りを捧げたのち”おすみ”の身代わりに自ら人柱になりこの地を鎮めたのです。
村人はお坊さんに深く感謝し、その尊い志は古老から孫へと語り継がれ毎年7月17日に供養を行ってきたそうです。
時が流れただの伝説となっても村人はその恩義を忘れなかったのです。それが500年も経って遺骨が見つかり史実として確認できたのですから凄い話ですよね。
窓からは雪国ならではの赤いトタン屋根の家と白い雪を被った山が見えました。
昔ながらの長閑な風景を懐かしい想いで眺めていると先ほどのおばあさんがいらしたので、「きれいですねえ」と山を指さすと
「あれは黒倉山、寺野のシンボルよ」
「寺野?」
「今は上越市に合併して板倉区になったんだけど、昔はこの辺りは寺野村だったの」
「そうですか」
「昔はもっと大勢人が住んでいてね、300世帯くらいかな?中学校だってあったのよ」
「そうだったんですね」
「あの山を越えてこの村まで下りてきなさったんだねえ・・・」
ちょっと前の出来事のような自然な口調だったので一瞬誰の事かしら?と思いました。
まるでおばあさん自身がお坊さんを知っているような、その時現地に居合わせたような・・・
しかし考えてみれば2012年の地滑りだって地区の人々の記憶には新しいはず。
身をもって災害を食い止めようとしたお坊さんの存在は板倉区の人たちにとっては切実な話なのかもしれません。
実際、500年前の”お坊さま”だって”おすみ”さんだって今と全く変わらないこの山姿を目にしていたに違いないのです。
「お客さんはどこからお出でなさったんで?」
「長野市です」
途端におばあさんの顔がぱぁーっと明るく輝きました。
「長野ですか?私も昔善光寺にお参りしたことあるよ!」
「そうですか!」
「今はなかなか行けないけど、昔は野沢温泉とかよく行ったもんです。黒倉山の峠を越えればじき(近く)だもんでね」
長野県飯山市と新潟県妙高市を結ぶ関県道95号線(主要地方道上越飯山線)は関田峠といい、昔は両県の物流を担う主要道路でありました。
長野県側からは障子に使われる内山紙や蓑、新潟県側からは塩や海産物が行商人によって運ばれ、峠の頂上付近で交換されていたそうです。
また飯山から山ノ内町に向かい、渋峠を越えるのが関東への一番の近道でしたから昔は黒倉山越えの峠が13も存在したそうです。
ただしこのルートは今もそうですが冬は積雪のため閉鎖されてしまいます。おそらくお坊さんが山越えをしたのも春の桜の時期あたり、そして四十八叩きの秘法の工事を終えて入滅したのが7月というのは合点のいく話です。
おばあさんにとっては長野から来た私も”黒倉山を越えてきた人”という認識だったんでしょう。それからはすっかり打ち解けてあれこれ話が弾みました。
「この辺りも飯山と同じですごく雪が降るんですねえ」
「そうなの。モニュメント見たでしょう?まあ8メートルなんてことはないけど何年か前の年も大雪でね。」
「わかります!あの年(2021年)も大変でしたね。高田から長野市に通勤してた同僚が1週間も家に帰れなくなって困ってました」
上越市高田35年ぶりの大雪 積雪2m間近 1日で103cm降る - 上越タウンジャーナル (joetsutj.com)
「そう!この辺りは4メートルも積もったのよ。まあ道路は雪かきしてるからなんとか通れるんだけど周り中が雪の壁になっちゃってね。あの時はこの施設もそうだけど春になるまで雪しか見えなくて、空ばーっかり見つめて暮らしてた」
「ほんと大変でしたねえ」
「毎年冬はそんなんだから家にこもるしかないし、子供の頃はとにかくお祭りだけが楽しみでね。春になるとお寺で”団子まき”って言って、お釈迦様の涅槃会にいろんな色に染めたおだんごを蒔く行事があるんだけどそれをみんなで競って拾うのが何より楽しかったのよ。若い人にこんなこと話してもわからないだろうけど」
「私も覚えてますよ。昔はお建前の時とかよくお餅蒔いてましたよね。あんな風習も最近じゃやらなくなりましたね」
「そうそう、懐かしい。でもそのお寺も今はもうないの。供養堂の天井に絵が飾ってあるでしょ?そのお寺の庵主さん(尼僧)が年取ったもんで山の内町(長野県中野市)の姪っ子さんのところに引っ越しちゃってね、もう廃寺になるってのでこの供養堂を建立した際に移設したのよ。」
それを聞いて私の脳内にはもう一つのストーリーが浮かびました。
おすみさんは本当にいて、お坊さんを弔うために出家されたのかもしれない。板倉区は親鸞上人の妻”恵信尼”が晩年を過ごした場所で、昔はもっと多くの寺があったそうです。
猿供養寺も「サル=ずれる」「クラ=崩れる」とこの地に数多くある寺を結び付けて名付けられた地名という説もありますし、ここが寺野村だったのもその現れでしょう。
悲しい話ですが古来人柱のような生贄は純粋無垢な処女が負わされるとされていたのが日本書紀のヤマタノオロチ伝説でも描かれています。
となればおすみさんの縁がある尼寺の天井画がこうして今も人柱供養堂を飾り、極彩色豊かな極楽の絵でお坊様の霊を慰めてるという事なのかもしれない・・・
この話はネットにも資料にもなかったですし、作者がそこまで知っていてこの作品を書いたのたかもわかりません。
もしかしたら偶然符号が一致したのかもしれないと思うとぞくっとしました。
いまこうして直々におばあさんから話を聞かされている私もなんだかお話の中に迷い込んでその一員になったような、タイムスリップしてるような不思議な感覚に見舞われました。
今では立派なこの周囲の桜も供養堂を新設する際に植えられたものだそうです。
小説では魂呼び桜の枝を接木した若い桜が植樹されたとありましたが、実際に訪れてみなければこんな見事な桜に囲まれたところだなんて思いもよりませんでした。
ちなみに魂呼び桜ですが、お話の中では枯れてしまっているので猿供養寺にないのは当然として、モデルになったのはこちら長野県上高井郡高山村の五大桜のひとつ赤和観音のしだれ桜かもしれません。樹齢200年余りですが幹は裂けているし、石垣の斜面に立っていて支える柱が無ければ倒れてしまいそうです。花はやや赤みを帯びていて色っぽく奔放に伸びた樹形と相まってなんとも妖艶な姿なのです。
「そういえば高田の桜も見頃だってテレビでやってたよ」
「えーそうなんですか?私まだ見たことないんです」
「じゃあぜひ行ってらっしゃいな。ここからはそんなに遠くないですよ。」
「じゃあ行ってみます!お話しできて良かったです。」
「私もよ。今日は楽しかったわ。」
寒村に伝わる人柱伝説なんて別にオカルトマニアでもない自分にとっては躊躇わざるをえない話でしたけど、こうして地元のおばあさんのお話を伺うと土地に住む人々の血の通った生き様が垣間見え、長野からわざわざ足を運んだ甲斐があったと感動しました。
500年の長きにわたって閉じ込められていたザルガメから出て、陽の差し込む明るいお堂のなかで縁あるお二人はきっと仲睦まじく里の人々を見守ってらっしゃるんだろうな。
本当のハッピーエンドを知ったような何とも清々しい想いで施設を後にした私ですが、まだ日暮れには時間もありますし高田に直行するまえに、ミニマム冒険家としてはここに来る前に気になったあの築山の正体を探らなくちゃいられません。
山の上には桜も植わっていたし、きっとそっちも綺麗に違いないと車を走らせました。
っと見えてきたのはこの景色。周囲の自然豊かな林に比べてなんとも荒涼とした印象を受けます。この辺りは別に地滑りの跡地ではなく、土の採掘現場のようでした。
土というのはどこにでも当たり前にあるように思えますが、中でも作物が育つ栄養価に富んだ土というのは実はとても少ないのです。土は形成されるまでに気が遠くなるほどの時間を有します。世界で最も豊かな土と言えばウクライナです。世界の穀倉地と言われるゆえんですし、それを奪おうとしてロシアが進行したわけですね。日本の土は品質的にそれには及びませんので、こうして肥えた土地を削り客土として他の農作地に輸送されていくのです。
この山も地滑りの跡なのかそれとも人工的に削られたのか?己が欲で地形を大きく変えるのは別に大蛇の仕業だけではないのです。
下から見上げてピンときた通りたどり着いてみればやはりそこは城跡でした。上杉謙信の重臣が築いた居城で箕冠城というのだそうです。
山頂まで少しばかり歩きましたが、出迎えてくれたのは満開の桜。眼下には越後の水田地帯から遠く日本海まで一望できるとても見晴らしの良い史跡です。
カタクリの花と水芭蕉。そして桜。長野だとそれぞれの見ごろは時期がずれるので、こうしていっぺんに咲き揃うのは初めて見ました。春が一斉にやってきたという感じです。わざわざ立ち寄った甲斐がありました。
夕方だったせいかこんな風光明媚なところなのに誰一人訪れる人もなく、あたりはしんと静まり返っておりました。
かつてはここに立派な館が構えられ勇壮な武者たちが護っていたのでしょうね。まさに兵どもが夢の跡
本丸の跡からも桜越しに黒倉山の優美な姿が良く見えます。
「あの山を越えてこの村まで下りてきなさったんだねえ・・・」
おばあさんの言葉が蘇りました。
救済のためその命を捧げたお坊様と今日までその恩を忘れぬ猿供養寺の人々が歩んだ道
一方で上杉謙信率いる軍勢はこの黒倉山を幾度も越えて信州川中島で武田信玄軍と合戦を繰り広げたそうです。
命の重みに違いはないと思いたいところですが、こうも変わるものかと感慨に耽らざるをえません。そして今なお世界中の戦争によって失われている命をこの先一体だれが弔ってくれるのだろうと思うと哀しくなります。
でもそれもこれもその場その時を生きるために必死にあがき、もがいている様なのです。
人間って本当に不可解です。
おっと私も暗くなる前に山を下りなきゃ、ぐずぐずしてたら何に遭遇するともわかりませんしね。今の私にとっては幽霊よりもクマが怖い~
というわけで日暮れ前に最終目的地上越市の高田城に到着しました。
日本の桜名所100選の一つだけあってその時間からでも夜桜見物客が押し寄せ駐車場はどこも満車。
何とか駅近くのコインパーキングに停めて少しばかり歩きましたが、それだけの価値はありましたね。聞きしに勝る見事さでした。
高田の桜は毎年長野よりは1週間ばかり早く満開を迎えるので、気が付いた時にはピークが過ぎてしまって一度は行きたいなんて思いながら毎年見逃してたのです。やっとこの目で拝めましたよ。
夜になると約4,000本の桜が3,000個以上のぼんぼりに照らされ、昼間とは全く異なる幻想的な世界が拡がります。
観光協会の説明文の通り、確かに幻想的ではあったのですがそれ以上に人が多いこと多いこと。
写真はなるべく人が映らないように撮影しましたが、実際は押すな押すなの大混雑です。
お昼抜きだったものですからおなかが空いてきたし、美味しそうな匂いにつられて何か食べたかったのですけど、どこの屋台も超長蛇の列。とてもじゃないけど買えそうにありません。
結局人の波に押し流されながらお堀の周りを一周するのがやっとでした。
さっきまでタイムスリップしてたのがウソみたいに現実に引き戻されましたよ。たとえ何かが憑いてきたってあの人混みじゃあ私を見失ったことでしょう。ハハハ
ま、とりあえず念願の高田の桜を見られたことだし長野に帰ることにしました。車を停めてた駐車場がどこかわからなくなってかなり焦りましたが、無事に帰宅できましたよ。
ちなみにこれが今年2024年の高田の桜です。いやあやっぱり美しいですねえ。来年もぜひ行きたいって思います。
もう一つ今年は実際に黒倉山を越えてみたいですね。あ、もちろん徒歩じゃありませんよ。
なんでも信越トレイルという人気のハイクコースになってるみたいですけど、そんな無理は致しません。
峠の途中にある2002年公開の映画「突入せよ!あさま山荘事件」で使用された「難局打開の鉄球」を見に行きたいかな?なーんて思ってるわけです。
その意味はわかる方にはわかりますよね!お話は第六巻「堕天使堂」へと続きます。