世はゴールデンウイークですが私は相変わらず貧乏暇なしでせっせとお仕事しております。でも子育てという大きな仕事はひと段落付き、寂しさ反面、かなり気が楽になりのびのびとパソコンに向き合える時間がやっと帰ってまいりました。

 

環境って大事ですね。あまりの書けなさ具合にとうとう自分もぼけたのかと戦々恐々してましたが、心配が片付いたらなんかずいぶんと気が楽になり再び言葉を紡げるようになりました。

 

上手い下手は関係ない。その時その場で感じたことをそのまま書き記せる自由のなんと素晴らしいことか。

 

というわけで早速前回の続きです。

 

目的地にたどり着いた私を出迎えたのは満開の桜とそしてこのモニュメント。人里における世界最高の積雪8.81メートルを記録するために建立されたものだそうです。

 

 

これだけの積雪に見舞われると大概の木造建築はひとたまりもありません。

2021年に上越市を襲った2メートル程度の積雪ですら想定外の雪の重みに耐えられず多くの家屋が倒壊してしまったのは記憶に新しいところです。

そんな厳しい環境にあってなぜこの地に人が住み続けるのか?

謎を探るのは別として、ただ小説の舞台となった場所を見たいという一心でまずは人柱供養堂の方に向かいます。

 

供養塔は地滑り資料館のすぐお隣にありました。

 

 

私が訪れた時には何人かの男性が集まっていて周辺の木の伐採か何かの作業中でした。人目がある中でいきなり内部に立ち入るのはなんとなく憚られたので、先に資料館を見学することにしました。

 

 

資料館入口で出迎えてくれたのはなんとも手作り感満載なゆるキャラ「じすべりくん」

その愛らしいお目目にホッと癒されつつあたりを見回してみたのですが、中に人の気配はまったく感じられませんでした。

 

受付と思しき事務所の中もからっぽで照明も付いておらず、「ごめんください」と声をかけてもだれも出てくる様子はありません。奥に見える展示室の中も真っ暗です。ドアは開いているのだし休館ではなさそうなのですが、このまま見学しても良いものか?

 

戸惑いつつ供養堂のほうに引き返すとちょうど休憩に入ったのか、作業着姿の老人たちが石段に腰かけてくつろいでいらっしゃったので思い切って話しかけてみました。

 

「あの地滑り資料館を見学に来たんですけど今日はお休みでしょうか?」

「えーー?まだ4時にはなっておらんだろ?女衆(おんなしょ)がおるはずだが?」

「どなたもいらっしゃいませんでした」

「ならそこらにおるはずだからちょっと呼んで来てやる」

 

方言が北信の人たちと同じことにちょっとほっとして、係の人が来るまでの間に供養堂のお参りをさせていただくとします。

さっきは気が引けましたけど、何といっても近くに人がいるほうが心強いですからね。

 

 

扉が解放されているせいもあって中は明るく、まずはきらびやかな厨子と華やかな天井画に目を奪われました。

 

 

そして奥の格子戸の中には地中から発見された甕とその中で座禅を組んでいたとされる遺骨がガラスケースの中に安置されていました。

 

鎌倉時代の人骨にしてはかなり保存状態が良いのにまず驚きます。

大腿骨の太さやしっかりとした歯並びに生前はさぞや逞しい男性だったのではないかと思われますが、珠洲焼の甕の方は高さ90センチ、幅69センチと思ったより小ぶりな印象をうけました。

 

猿供養寺では毎年7月に村のためわが身を犠牲とした僧侶を悼む祭祀が行われていたそうです。が、長きに渡り伝説だと思われていたその人柱の存在が昭和12年(1934年)3月16日!に偶然住民によって発見されたのです。

そのあらましは堂内にも掲示されていました。興味のある方は拡大してお読みください。

 

 

発見の際には村中大騒ぎで、老人から学校帰りの小学生にいたるまで見学していたそうです。

 

僧侶に被せられていたザルガメは鎌倉時代の焼き物で六道銭と言われる副葬品とともに発掘されました。甕に刻まれた印からもそれが間違いなく人柱だったことがわかります。

 

 

なんとなく不気味に思っていたのがいざ遺骨を前にすると怖さはみじんも感じられず、ただただ無心で手を合わせました。

旅の途中に通りかかった何のゆかりもない村人たちのために己が命を差し出した人間がいる。

その事実を目の前にしてむしろ心が温まる思いでした。

 

お参りを済ませて資料館の方に戻ると女衆(おんなしょ)と言われた女性が帰ってきたところでした。

 

「ああ留守しててごめんなさいね。裏に杉っ玉がたくさん落ちちゃってて箒でもって掃除してたとこだったの」

「いえいえすみません」

「今灯りをつけるでどうぞ中に入って見てやってって。どうぞどうぞ」

 

こうした公共の施設ですから働いているのはてっきり現役世代と思ってたら、案内してくれたのは80歳にはなろうかというおばあさんでした。シルバー人材センターの派遣かそれとも地区の方々が持ち回りで資料館の管理をなされているのかもしれません。

 

資料館の1階は豪雪地帯における人々の暮らしぶりや各地の地滑り被害や防災についての知識を学ぶコーナーでした。

 

ごく簡単に説明しますと泥岩のような硬く密度の高い岩盤の上に砂利や腐葉土など柔らかな土が堆積してできた地層が危険なのです。

岩は水を通しませんから土と岩の間には雨水が溜まりやすく、その地下水が何かの拍子で一気に流れてその上の堆積層が崩れてしまうのが地滑りです。

子供の頃、滑り台の上に砂を盛り、上からじょうろで水をかけて流して遊んだことありませんか?まさにあれです。

 

このような地層は上越市に限らず全国各地にあるのですが、特に雪深い地方になるとその危険度はさらに増します。

降り積もった大雪はその重みで地層をじわじわと押し広げながら大地の奥深くまで浸透し、春になると大量の雪解け水となって一気に流れ下るからです。

 

平成12年3月10日から板倉区で発生した大規模な地滑りもまさに雪解けとともに起こった災害でした。

上空からの映像だとまるで白い大地を真っ黒な蛇がうねりながら通り過ぎた痕のようにも見えますね。

 

伝説によると地滑りは黒い大蛇が起こすものとされていますが、このありさまを見ればなるほど頷けます。

 

 

 

こうした被害がこの地方では有史以来何度も何度も繰り返されてきたのです。

 

それでも人々がこの地を捨てなかったのは地滑りは天地返しともいい、連作によって疲弊した表層の土を掘り返して、作物を育てるのに好適な富んだ土を表面化してくれる作用があるからなのです。

 

しかしそれはあくまでも長い目で見ればの話しで、せっかく苦労して育てた作物や、自分の家をそのたび流されていたのではたまったものではありません。

 

地滑りを防ぐ手立ては動画にもありますがなるべく地下水が溜まらないように水を抜くことです。

 

資料館では地滑り対策として行われてきた水抜き方法についても説明されていました。もしかしたらそれが伝説に言う「四十八叩きの秘法」だったのかと調べてみたところ、現代の杭工(地面に杭を打ち付けて地すべりを抑止する工法)のようです。

 

旅の僧侶はこの方法を村人に教えた上でさらに自分が人柱となって地滑りを食い止めようとしたのです。

 

つづく