数週間前から中2のU君が来ています。彼は中1から今までで1週間ほどしか学校に行っていません。

こちらで初めて勉強した時、ふっと言ってくれた 「ああ、これでやっと落ち着ける場所が見つかった・・・」

という言葉は本当に嬉しく思いました。  それ以来、彼は週2回、きっちり定刻の10分前に来て真面目に勉強し

ています。彼は中2とは思えない程様々な事を知っていて、それらを論理的におもしろく語ってくれます。 また

知識だけではなく、「人はなぜ生きるのか」 「生きるとは本当はどういうことであるのか」 など考えたりもしていて

、その様な哲学的話し相手は、専ら「おじいちゃん」だそうです。 U君は人に対する思いやりもとても深い少年です。何か自分が希望することがあっても 「いや、これは迷惑かな?」 と一歩立ち止まり、考えている姿を

何度も見ました。


そんな君は中学で、友達みんなから、ひどくいじめにあいました。例えば、彼がいるだけで「菌がうつる」と友達たちは大騒ぎし、逃げ回り、彼が触ったものも汚物のように扱っていたそうです・・・


  私はこの様な状態が許され放置されているという現状に、大きな衝撃と激しい憤りを感じました。

こんな誤った矛盾が存在していてよいものなのでしょうか? U君は確かに、(現代の基準からすると) 他の友達よりやや知的レベルは高いかもしれません。 けれど以前拳銃ごっこを幼馴染としたことをなつかしく話すU君は無邪気そのものです。


誤が多い時,正を排する方が、はるかに楽でしょう。相変わらず群れを良しとする日本です。あれこれ欧米かぶれにしてはその点だけは昔と変わりませんね。 我々が真の開かれた民主主義を本当に唱えるのならば

多勢崇拝ではなく、人はすべて異なり、個性を持ち、それらの尊重こそ人と人との繋がりの出発点で

あることを、大人は子供たちに教えなければならないのではないでしょうか? U君のようなケイスが黙認され放置されている限り、この国の未来は決して知的で温かく明るいものにはならないでしょう。

    随分久しぶりで、先週末にひいた風邪がまだ治りません。体力には自信があったのに・・・風邪に誘発され

今は持病の喘息も顔を出し始めました(>_<) マスクをしながら毎日授業しています。


    昨夜は自分の咳であまりよく眠れませんでした。 ピーターパンがネバーランドに戻る前、ウェンディ達に

言ったような「夢から半分覚めかけている」そんな不思議な次元の世界を、一晩中私はたゆたっていました。

すると、無意識に次々と様々な作家たちの言葉や場面が鮮明に脳裏に浮かび上がってきました。

例えば、私が小学校の頃、本棚にあった詩集の中の、すでに題名も作家名も忘れてしまった詩・・治る一縷の

望みすらない病の赤ちゃんの手術の場面・・「赤ちゃんの目にはお医者さんのマスクがまるで白い絆創膏の

ように映っていました」 とか、ほとんど寝たきりの生活を強いられながらも、人間の尊厳を決して失うことなく生ききった三浦綾子さんの知的微笑とか、 高村光太郎の「レモン哀歌」で「トパーズ色のレモン」を「がりりと噛ん」で

微笑む千恵子とか、そのレモンに心身を託し、熱気をおびた体で逍遥する梶井基次郎の姿とか・・・


    今まで一つの作品としてのみ捉えていたものが、自分がひとたび同じような状況におかれた時、急に

身近に感じられ、人ごととは思えなくなってくる・・・人とは身勝手なものですね。(あるいは私が・・)


    生徒の方々の中にも受験真近なときなど、熱が40度近くあろうと、激しい嘔吐に苦しめられていようと、

授業を受けに来る人達が多くいます。  今度ひどい風邪をひいてみて、今更ながら彼、彼女たちの根性の

強さに敬服しました。  彼らの前には、きっっとすばらしい未来が待っていますよね。

   このところ、日本列島はお笑いブームが続いていますね。テレビをつけると必ずどこかしらで、’お笑い’

をしています。  確かに現実の様々な厄介な雑事を忘れ、お腹を抱えて笑うのは楽しいですし、大声を出して

笑うことは心身ともに良い影響があることも証明されています。

   けれど反面、グローバルな視点からは残念ながら 「日本人ほどユーモアのわからない国民はいない」 と見なされています。日本人は、ダジャレ、バカ笑い、下ネタをユーモアと勘違いしてしまう傾向があるようです。


かつて、ユーモアの王様と呼ばれたマーク・トゥエインは 「真のユーモアとは、人間の本当の悲しみや苦悩を

知っているものだけが言える」 と言いました。

そうですね。 ユーモアとは本来静かなものなのですね。

何かに落ち込んでいたり、悲痛にくれている時、ふとかけられた、ひとつの言葉・・・それがほのぼのと温かく

心にしみ渡り、「人生いろいろあるけれど、それほど捨てたものではないかな」 とか 「また明日から、もう一度

歩き出してみようかな」 とか 「私はひとりではないんだな」 という勇気が湧いてくるものなのでしょう。欧米では、何かしらの励ましのために死刑囚にすら看守の人はユーモアを投げかけると聞いています。


  この機械化が横行し科学重視の世の中で、人は、心の中に殺伐とした空間を実感するとき、とりとめのない失望に苦しむ時、安らかで暖かなぬくもりを感じさせてくれる言葉の交わしあいこそ、今、根底で最も必要とされているものかもしれませんね・・・