世界経済の中心は未だニューヨークにあり、おそらくアメリカは自由経済の母胎として、今後もプライムローンに同義の貧困層に金を貸し付けるシステムを繰り返さざるを得ないだろう…

多くの宗教は歴史的に高利で金を貸し付ける『金融』について、それ自体を禁じてきた。
16世紀のイタリアにおいても、貸した金は神の恩寵の賜物であり貸した金に見返り-利子を求めてはならないという聖書の金言により、高利貸しを生業とする者は悉く地獄に堕ちると断ぜられた。

シェイクスピアの戯曲『ベニスの商人』におけるユダヤ人金融業者シャイロックと、敵対するベニス商人との攻防それこそが、往事のユダヤ人に対するキリスト教者に端的な侮蔑の世界観なのである。

「利子」という概念の発生は人類が漂流を終らせ定住を始めた頃からであるとされ、古代メソポタミアでは既に利子が忌むべきものとして書物に登場する。
そして、欲望を煽る元凶と見て金融を禁忌とした悠久の来歴に唯一ユダヤ教だけが金融を是認したのである。

一方、イタリアが世界の通商交易の中心であった時代、富の生み出す利子によって巨万を得たキリスト教徒の豪商らは、自らに芽生えた罪悪の感情を免罪符や教会の普請に莫大な寄付をすることによって沈静した。
イタリアの都市を訪れた観光客が目を見張る巨大にして荘厳美麗な建造物郡は富める者の贖罪の賜物であり、信心深く善行に努め貧しい者や芸術家を保護するというキリスト教徒らの連鎖は教会という一枚岩に精神を依拠する故、全ヨーロッパに広がる慈善の文化運動となり得たのである。

そして、シェイクスピアの『ベニスの商人』があれほど世界中に拡散し広範に流布した潮流は、資本主義が友情や連帯を根本とする共同体原理から冷徹な商品経済原理へと変質していく時間軸の起点が、シェイクスピアの生きた16世紀半ばであったことの証左に他ならない。

資本主義経済では借り入れ金というものが何もないところから何かを生み出す唯一の方法である以上、数多の経済学者の論理を凌駕して更なる借り入れと消費によって増殖する欲望の構図のうちに、自由経済世界の疲弊はより更新されるばかりなのだろうφ(.. )

利子はアルコールに似ている
酒の与えるエネルギーは月曜からの精勤を担保する神からの前借りである

休日夜半の酩酊に先人の名言を独り想う…


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アメリカ人の飲物といえば先ずはコーヒーである。
その素地は、かつて英国製品ボイコットのためボストン港に着いた大量の紅茶を海に廃棄した敵愾心と、英国に向かって敢然と掲げられた独立反旗の名残であろうか…

現代的通念では看過されがちであるが、1776年ベンジャミン・フランクリン草案の独立宣言により独立国家となるまで、アメリカは主に英国を宗主国とする新参の植民地であった。

我々の良く知るアメリカ大陸への最初の思想的入植として荘厳なる宗教儀式にも目される『メイフラワー号』であるが、実際には乗客のうち清教徒はごく少数で、大方は宗教イデオロギーとは全く無縁な商行為のために英国を後にした渡航者であったという。
それでも、より純粋なプロテスタントであろうと新天地を目指した入植者の気概は、「摂生」「勤勉」「沈黙」といった抑制を以て、マックス・ヴェーバーの社会科学が説明するプロテスタンティズムの倫理を最も愚直に励行せしめたのである。

先頃ヨーロッパにおいて通貨危機に陥る国が専らプロテスタント以外の国であるのは単なる偶然に非ずとしてプロテスタントの勤勉倫理が俄に注目されたが、プロテスタントとカトリックの差違を一言にいえば、社会が不動である事を重んじるカトリックに対し、プロテスタントでは絶えざる革新を是として旺盛に働き祈ることを基本としている点である。

世界に冠たるスイス時計職人の醸成もまたカトリックによる宗教弾圧から逃れたドイツやフランスのプロテスタント達が異郷の地スイスで神の名のもとに黙々と忍耐強く時計創りに励んだ結果であるという例を見るにも、プロテスタントの勤勉とグローバリズム性こそが資本主義の原本であるという他はないのだろう。

自分が天国に行ける可能性への不明を追い払うために必要なのものは、ローマカトリックの発行する免罪符ではなく、自らの職業を天与の賜物と意識した上での勤勉こそが至上であると敷衍した宗教革命におけるジョン・カルバンの意思は、メイフラワー号以来おそらく今に至って尚アメリカ人の世界観の骨子として健在である。

勤勉により蓄えた富は投資して公共に還元せよと教え、 勤勉が生み出した富は恥ではなく神の認める名誉であるとしたカルバンの思考は、悉く現行のトランプ大統領のアメリカ型近代資本主義に直結しており、その意味においてトランプ大統領は断じて突破者の変人ではなく、最も伝統的な純血種アメリカ人の典型と見るべきなのであるφ(.. )

人がより良く生きるために
歴史は夜作られ
昼間に粉飾される…


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『太陽がいっぱい』という映画がある。

60年代が生んだ美貌の権化アラン・ドロンが突き付ける貧富格差の酷薄が観る者を圧倒する不朽の名作である。
地中海の太陽の無遠慮にざわめく熱線は、あたかも主人公が傲慢で裕福な友人に挑んだ完全犯罪を破綻させていく様を世界中の映画館の片隅で固唾を呑んで見つめた貧しい青年らの咆哮のようである…

映画『太陽がいっぱい』の伏線である貧富格差の酷薄は、おそらくいつの時代にも解決を夢見る者たちの意思を決する起点であった。

およそ250年前に刊行されたアダムスミスの『国富論』が自由競争のバイブルとされながら古典として隔離されて久しいが、長い歳月を費やした大作『国富論』刊行の起点もまた、貧富格差を拡大する往時の英国を一色に席巻した重商主義への批判からであった。

大英帝国の国威がピークであった時代、スコットランド人であるアダムスミスは英国内に跋扈する好戦とナショナリズムを懸念し、帝国主義のもたらすリスクと末路を冷徹に見抜いていたのである。

『国富論』から遡ること17年前『道徳感情論』で弱冠29歳のアダムスミスが力説した「人間は如何なる私利追求の際にも他者からの反感を怖れ、他者の共感を求めずにはいないものだ」という「共感」の概念は、『国富論』の「私利の追求が価格機構の見えざる手に導かれ、公益のみを考えた時よりもよりよく公益を達成する」という、我々のよく知る「見えざる手」の論拠へと帰着した。

我らが日本人は、マックス・ヴェーバーが『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において説明したプロテスタント倫理を要せずして同質以上の勤勉に徹した稀有な集団と言っていいだろう。

過労死に至るまでに透徹される日本人の勤勉が負の価値観としてのみ敷衍されている現況は、実に残念で雑駁な仕訳であると私は思うφ(.. )

同性愛のカミングアウトが市民権を得た昨今とは違い、60年代に作られた『太陽がいっぱい』には主人公と友人との間に通低される感情が同性愛である事の直接的表現を避けた暗喩が随所に仄めかされており、作品の淫靡な魅力を助長している。

隠匿されるべきタブーを失った世界は、どこか浅薄で私には何とも味気ない…


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