生まれながらに万人は平等であるとする社会に生き、それでも努力や能力の多寡を問わず誰もが平等である事が悪平等として内心にふと呟かれる矛盾…
それもまた掛け値なき人間の本音であろう。

自分への評価が過不足なく妥当であると満悦できる者は現代には稀少であり、大方の人間は自分の所得や利益や置かれた環境を是認することなく怨嗟の一抹を腹に据えており、憤懣を起爆させる衝動が時折に否応なく我々を直撃する。

憤懣の有り様が一人一人違うように憤懣の発露もまた様々であるが、痛飲や浪費や刹那の放蕩で紛らわせる個人の鬱屈から果ては国家国民を見舞う国際間の理不尽に対する宣戦布告まで、憤懣の起爆は、種族を越えた生存の本元として万人に通底されるものなのかもしれない。

ここ数日の亜熱帯のごとき猛暑に日本の就労者の一方ならぬ疲弊を否めないが、それでも目下の我々には冷房のある場所への移動や冷えた飲料の補給が何なく可能である。
たとえばその平易は、南海の孤島に戦時下を闘う事を限定された兵士らには垂涎の待避である。

太平洋戦争末期の戦況悪化による絶対防衛圏死守のためにサイパン、硫黄島、ペリリュー島に赴いた数万の精鋭日本兵は物資の補給を断たれ、大方が戦傷ではなくマラリアや赤痢の蔓延と飢えと渇きとによって無冠のままに玉砕した。

気温40度近くを体感するここ数日に、酷暑の島に潰えた日本兵の死は過ぎ去った無機の史実ではなく、援護を待ちわびながら無惨に朽果てた他ならぬ我が同胞らの無念の堆積である事が鮮やかに覚知される。

パラオの美しき小島ペリリューには日本人にはあまり知られない一つの碑文がある。

「諸国から訪れる旅人たちよ
此の島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦いそして玉砕したかを伝えられよ…」

寄稿はマッカーサーと共に日本殲滅の急先鋒であった米国海軍大将チェスター・ニミッツであるという驚愕…

果たして現代日本の幾人が常夏のペリリューに佇むこの碑の存在と、敵国の大将の手になるこの碑文を知っているのだろうかφ(.. )

クールジャパン-新旧の共存に成功せし「美しき日本」を世界に発信する前提には、自国の史実への真摯なる温故と理解が先ずは肝要であろうと思う炎暑の休日、自室にて


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大義を見つけた者は幸福である。

この世が安全かつ快適なものである事を前提とした観念的恒常のうちに、いつしか現代人は大義名分を一貫する精神的至福から分厚い壁を以て隔絶された…

幼い頃、時代劇の劇中で武家の奥方や婦女が夫君の凋落に付き従い自害して果てる顛末に強く惹かれ圧倒された。
夫君の大義に追従する理不尽をじっと見つめる私の感興は、おそらく大義を全うするという未知の精神性への最初の憧憬であった。

放縦放埒と秩序との危うい均衡を推し量る人的機能は、たとえば国防の大義が長く失われ大義名分自体が悉く冷笑される社会では否応なしに退化していくようである。

かくして和平久しきこの国では、酒場や社交の場でのまともな流儀を全うするさえ能わぬ成人男女が量産され跋扈するのである。

たとえば女性と酒食を共にするに際し、対面の座席で壁を背にする席を女性に譲る慣例一つにも、女を壁を飾る一幅の掛け軸や絵画に準ずるものとして扱った男たちの伝統的大義の連綿がある。
無論それは、女の老若や地位や人間的内面を含めた総合性に基づく良識であり、女の側にもその深意が予め充分に咀嚼されて然るべきものである。

相手を俯瞰して、もし一向にその女の内実が到底一幅の絵には相応しくないと思い澱むき、男はどうするべきか?
その場は取りあえず、そんな相手との酒食の場を今後は慎重に回避する細心を秘かに自らに誓えばよいのである。

一方、寸分の逡巡なくあらゆる女に対して齟齬なく上席に導くことの出来る男性にも、自らの洗練について一元的に是認するのは些か危険であると申し上げたい。
そうした所作を如才なく為す男は確かにスマートであるが、どこかに幇間か男芸者の類いの臭気を嗅いでしまう私のような女も、日本には未だ少なからず存在するからである。

刀狩りの爾来より男子が帯刀せざるを得て幾星霜、かつてならば一刀のもとに斬って棄てられたであろう酒席での非礼や舌禍が夥しく巷間に溢れ、人々のやり取りが雑駁に浅薄にひたすらに低きに流れて留めどなき様を、やるせなく遠望するこの頃であるφ(.. )

オウム真理教、麻原教祖を含む実行犯7名の死刑執行の報
現金数千万とメロンを死守する俗欲の徒に帰依し潰えた若者らの憐れなる大義を思う夜、自室にて


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表れては潰える為政者のように、あらゆる文明は結局は季節の移ろうごとく衰亡の白秋から玄冬へと回帰し潰えていくものなのだろうか…

早すぎる梅雨明けの街路には早朝というのに陽炎がたぎり歩く者の精気を奪い街丸ごとが凪のように無音である。
異常気象が度々に取り沙汰された本年であるが、それでも季節の並びに異変は無く巡り来る盛夏を待つ今である。
炎暑の兆す頃、街路をゆく私に決まって思い出されるのが真夏のパリに佇む『マルテの手記』の主人公マルテラウリツ・ブリッケの姿である。
若きマルテへの共鳴は自分の若さや貧しさのうちに起こる一過性のものであろうという漠たる想像は、どうやら間違いであった。

プラハ生まれのドイツ詩人リルケがデンマークの若い詩人マルテを断片的に事象を連ねる文章法を以てフィクショナライズに突き放そうとすればするほど、作者リルケと主人公マルテの孤独が一つの塊りとなって、気がつけば還暦を過ぎて尚私の傍らにあるのである。

さて、20世紀初頭のパリの繁栄と喧騒に目を見張り圧倒された寄る辺なき異邦人の孤独は、果たして現代の若者に通底されるものであろうか?

少年期の孤独や孤立への恐怖は多くの場合、人を様々に醸成し強靭にするための最初の基軸である。
そして青春から燃え盛る豊饒の朱夏へと向かう年齢に最も依拠されるべき一つは、孤独との攻防の記憶に他ならぬであろうと思う。
無論、孤独への恐怖は個体差を越えてやはり各々自らが越えるべきものである。
けれども、年長者或いは立場上に年少の者の拠り所とされる者は自らの経験知を以て断じてその手助けをするべきではないだろうか?
涙を拭い肩を抱くのでも金品を宛がうのでもなく、その際には偏に鍛練されたその者自らの矜持が是非とも必要であろう。
孤独や孤立することを極端に恐れ、無機の器械にすがり誰かしらに繋がろうと腐心する昨今の若者を軽蔑する安直は、おそらく今の年長者らが最も陥り易く避けなければならない欺瞞である。

穏やかに愉しげな相貌の奥にチラリと光る氷れる刃を隠しもつ真の大人には届かずも、屈託を水面下にばたつかせながら白鳥のごとき静謐を自らに課す心性無くして老残の意味は無しと、自らに戒めるこの頃であるφ(.. )



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