…週間アワーピープル通信


数年前の夏、呑気に避暑がてらのつもりで帰省した北海道で私は滞在の間ずっと熱帯夜に見舞われた。
まさに地球温暖化を体感する数日であった。

北海道は地域的全体に民家には冷房がない。
所得格差や個人の健康指向などとは関係なく、先ず機器を介して冷気を得るという発想がないのである。
確かにひと夏を通して気温が30度を越えることは稀であった。
我が故郷の住人にとって酷暑とは何かの間違いのような一過性の微かに汗ばむ数日のことを意味する。
夏の高温よりは、厳冬の底無しの寒さこそが住民にとって闘うべき自然事象の全てなのである。
アルミサッシが当たり前である今と違い、私が子供の頃の民家は木製の二重窓が基本で、防寒のため大方には農業用のビニールが更に補強のために外から張り付けら
れていた。

春になると外されるそのビニールが、何かの事情で外されずに季節の移ろうに任せた民家が時折見受けられた。
越冬に付随する作業は極寒の地に暮らす者にとって最大の課題のはずである。
その基本さえ放擲しなければならない事情を抱えた家庭の破れて風雨に晒された窓のビニールを見る度に私は、見知らぬその家族の苦悩を想像しては哀しい気持ちになるのだった。
あるいはその放置は単なる鷹揚や、その家庭なりの冷静な合理であったかもしれない。
けれども子供の私の目に映る薄汚れた窓は、そのまま大人たちの苦悩や疲弊の端的な具象として凝視せざるをえない対象だったのである。

個性という言葉を耳にする時に虚しさと共に私が思い浮かべるのは、あの鎖され窓の家屋の群である。

日本の教育現場で個性を尊重し醸成するといった語彙が頻発し始めたのは、ベビーブーマー世代が学齢を終え少子高齢化に移行する頃と符合している。

受験戦争の洗礼を受けた最後の世代である私には、新しい教育指導要領を丸投げするように「皆さんの個性は何よりも大事なもので…」云々と一斉に語り始めた教師のしたり顔を、うんざりと一瞥した明確な記憶がある。

行き過ぎた個性尊重は、いつしか怠惰や劣性までを個性として誤認する愚昧を生んだ。

旧来の詰め込み主義への反省にたった教育要領の変遷は1980年以降の「ゆとり教育」の提唱で一応の帰結を見せ、行き過ぎた誤謬の訂正と過去への再回帰を以って今日に至っている…


教訓:
個性とは最も教育されがたいものの一つである
単なる差異ではない真の個性とは寧ろ抑圧され個人を画一的に包括しようとする力の強靭さに比例して逆行的に噴出するものである


故郷の街で幼い私が去り難く凝視したビニールの窓は、私に最初に不平等の悲哀を教育した原風景であったかもしれない。

皮膚病持ちの犬のように、どんよりと力無く佇む疲弊した窓を抱えた家屋の圧倒的な他者との差異は、私にとって未知なる現実にある幾多の不条理を教える分厚い書籍の最初の頁を飾る扉絵のようなものであったように思うのであるφ(.. )


アワーピープル
片倉由紀