以上の記事で見てきた
土倉および
土倉鉱山(主に銅、硫黄を産出)の歴史について、
下記のようにまとめておく。
【人口の推移】
江戸時代初期
伊香郡柳ヶ瀬村から
彦根藩御用炭焼が奥土倉に移住
↓
天和2年(1682)
6戸(奥土倉)
↓
明治27年
9戸(奥土倉)
↓
明治28・29年
大水害
↓
明治30年
5戸(出口土倉)
↓
明治41年
鉱山採掘開始
もとの住民が奥土倉に復帰
↓
昭和29年
戸数105戸、人口468人
日用品の売店、共同浴場、映画館、診療所、
小学校分校(1~4年)があった
↓
昭和40年
廃鉱
↓
現在は廃村
【鉱山の経営権の推移】
江戸時代~明治40年
炭焼が主産業
↓
明治40年
中島善十郎(岐阜県安八郡)が露頭を発見
↓
明治41年~明治42年
中島善十郎
↓
明治43年~昭和8年
田中銀之助が率いる田中鉱業株式会社
↓
昭和9年~24年
日本窒素肥料株式会社傘下
朝鮮鉱業開発株式会社
↓
昭和25年~昭和40年
日窒鉱業株式会社
(現在の株式会社ニッチツ)
土倉鉱山の従業員数256人(昭和29年)
↓ 鉱量18,253トン(昭和29年)
↓
昭和40年
廃鉱
【鉱石搬出ルートの推移】
明治41年~大正6年
土倉-高時川沿い(荷馬車)-木ノ本駅
↓
大正7年~昭和8年
土倉-杉本隧道(荷馬車)-中ノ郷駅
↓
昭和9年~昭和40年
土倉-杉本原動所(空中索道)-木ノ本駅
↓
昭和40年
廃鉱
鉱石の搬出ルートを
いちおう、地図に線引きしてみたが、
索道の架設ルートがよくわからない
(とくに杉本-木之本間)。
また調べておきます。
【事業所の推移】
明治40年~昭和14年
奥土倉
↓
昭和14年
雪害による死亡事故
大通道の掘削
↓
昭和15年~昭和40年
出口土倉
↓
昭和40年
廃鉱
土倉鉱山の歴史の概要はつかめたので、
今後、機会を得て、
現地に残る遺構や伝承等を探索してみたいな。