杉本隧道を通り抜けて、坂道をくだり、
上丹生へ出て、さらに川沿いをくだっていくと、
中ノ郷駅に到着する。
地名は中之郷なのに、
中ノ郷駅とは、これいかに?
ということだが、
明治時代につけられた駅名は
当時の慣習(送りがなにはカタカナを使用)によって、
地名での使用文字にかかわず、、
駅名をつけてしまったようだ。
・・・・・というよりも、
実は地名の文字表記も、
明治初期には、まだ固定化していなかったということが
この背景にあるのだろう。
米原方面へ
ひとつ向こうの木ノ本駅(地名は木之本)も同じことで、
鉄道敷設時には、地名の表記として、
中ノ郷、中之郷
木ノ本、木之本のいずれもが使われていて、
駅名として中ノ郷駅、木ノ本駅を採用した後、
地名は中之郷、木之本に固定化していったということだろう。
まあ、
そうした駅名論はともかく、
国鉄中ノ郷駅は、
昭和32年に北陸本線のルートが
現在ルートに変更になって、
しばらくの間は
柳ヶ瀬線の駅として存続したが
昭和39年の柳ヶ瀬線の廃線に伴って廃止になった。
今の長浜市余呉支所が
駅跡地といわれるが、
それを示す遺構はみあたらない。
通りかかりのご老体にたずねると、
派出所前(道向かい)の忠魂碑が建っているところが駅跡だという。
その場所に行ってみると、
駅名標のレプリカが建っていた。
駅名標のレプリカは
地名にあわせて、
中之郷駅にしてある。
もう、廃線、廃駅になっているから、
問題にもならない?
もう一つ前の
古い駅名標のレプリカも
松の根本に
たてかけられていた。
電柱の向こう側(木之本側)に見える
線路跡は、現在の国道365号線。
鉄道の遺構は、
ほとんどないに等しいが、
この国道の路肩脇に、
鉄道時代の橋脚らしい石積みがあった。
土倉鉱山からの鉱石は、
この中ノ郷駅で貨物列車に積み替えられ、
敦賀港へと向かっていった。