以前の東京散歩のなかで、青山通りを東に向かって赤坂見附から紀ノ国坂、登って四谷、四谷から麹町を通って半蔵門、さらに桜田門までというコースを歩いたことがありました。

半蔵門というのは、徳川将軍家が危機に陥った際に、ここから脱出して西を目指し、甲州さらには信州方面を目指すということから作られたものとか。

 

・・・ただここでわからないのが、なぜ西なのか?

神君であるグラサン家康は、死後まずは確か静岡に西を睨む形で葬られ、その後日光に移されたはず(記憶のみの記述です)

そのくらい、西からの脅威、つまり薩長を意識していたというのに、なぜ逃げる先が西?

これが素朴な疑問です。

 

信州・松本城。

歴代の藩主はといえば・・・

初代は、例の石川数正。

藩主別にいえば、戸田氏が重なっていますが、六家。

このうち石川氏と水野氏は改易、水野氏が改易されたあとに一時的にですが、真田氏(この説明板にはありませんが)

 

幕末期には、戸田氏。

案の定というのか、笑ってしまうというか、戊辰戦争時には

薩長軍に加担しています。

 

確か版籍奉還時、真っ先に明治政府に奉還を行ったひとりが戸田氏ではなかったかと・・・

 

なにやらこのあたり、例の「関ケ原の時」の小山会議で真っ先に自城の掛川城を提供することを家康に申し出て、この功績で土佐二十四万石の太守となった山内一豊を思い出して、やっぱりねというか、なんというかグラサン

歴史は一筋縄ではいきません。

 

駅弁「櫓膳」、美味しかったですウインク

 

関ケ原といい、戊辰戦争といい、歴史は戦争の繰り返し。

太平洋戦争が終結してから、来年で80年ですか?

 

1945年、今から79年前の6月といえば、東京や大阪、愛知などなどを筆頭にして米軍機による本土空襲がさかんに

始まったころ。

秩父神社近く、番場通りの岩田医院近くで実施された、いわゆる「バケツリレー」訓練の様子かと思われます。

そして、79年後。

ほぼ同じ地点からの、現在の風景。

「ウクライナに平和を」と・・・