スポーツ選手(に限りませんが)の生き方、引き際は、それぞれ
とても興味深いものがあります。
そして、個人的にとても好ましい方もいれば、逆もある・・・
好ましい方のひとりに、スピードスケートの小平奈緒さん。
彼女の「Link」が発売されるということで、予約購入いたしました。
私が私が、オレがオレが・・・という生き方の方々がどちらかといえば多いなか、小平さんはその逆サイドに立つ方かと。
また、今回購入した著書のなかで、「よくスポーツ選手が夢や希望を与えられる存在になりたいと言いますが、夢や希望は与えるものではなく、届くものだと思っています」というくだり・・・まさに「ウン、うん、その通り」と大共感いたします。
結構いるんですね、「夢や希望を与えたい」と、ニコニコ顔でいうスポーツ選手・・・あまり深く考えず、また悪気も当然ないんでしょうが、う~ん。
小平さんの好きな言葉として有名なものに・・・
「明日死ぬかのように生きろ。永遠に生きるがごとく学べ」があります。
これはインドのマハトマ・ガンジーの名言。
英語で言えば「Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever. 」
「die tomorrowとlive forever」が対になり、ストンと心に快く響いてきます。
「Link」・・・このところの愛読書になっています。
秩父事件の起こった10月末~11月初めが近づいた、この季節。
東京散歩だけでなく、秩父散歩も時間をみつけては、チョコチョコと。
音楽寺の鐘を打ち鳴らして、荒川を渡って、大宮郷へ・・・秩父事件のクライマックスともいうべき舞台。
荒川左岸から臨む、武の鼻付近。
上には、ブラタモリ秩父編で冒頭に登場した秩父公園橋。
写真右端には、武の鼻橋。
もっとも、秩父事件当時には、秩父夜祭前の10日ほど前に左岸の上寺尾側と右岸の中村側とが話し合い、共同で簡易的な橋を架けていたとのこと。
したがって、この荒川を困民党軍は・・・おそらく膝から腰まで浸かりながら渡ったはず。
いまでも残る「木村縫製」さんの建物横から入って、ずるま坂へ。
たぶん写真中央部の斜面が「ずるま坂」のはずですが、今では団地などの建物ができて、その痕跡はわかりません。
新人物往来社刊「秩父困民軍の人と闘い」から、地図を引用させてもらえば、こんな感じ。
「ずるま坂」を登って、それ以降のルートですが、なんとかわずかに残っていました。
ここが、現在路地状になっている、秩父事件の「歴史の道」。
(しかし、ここがそんな歴史のある路地だということを、どのくらいの数の人が知っているかは、正直疑問)
行き止まり先には、薬師堂裏の墓所。
上の写真が、その表側。
ここから困民党は大きく二手に分かれての行動。
ひとつは、南に進んで、近戸の地蔵院。
写真奥に見えるのは、矢尾。
矢尾さん付近は、事件当時は大宮郷の政治・経済の中心ともいうべきところ。
郡役所があり、警察本部があり・・・目と鼻の先にある攻めるべき地点をここから睨んでというところでしょうか。
吉田・椋神社に発する事件、「大宮郷に攻め込んでくる」というなかで、金貸しのひとりである井上四郎次なる人物は、大事なものをひっかかえて、今宮神社(札所14番今宮坊近く)の向かいにある自宅から、この地蔵院に逃げ込んだのですが・・・
そこに、困民党の当面の作戦本部とするために主力軍が乗り込んで・・・もう悲劇というか、喜劇というか
さんざんに脅かされて、結局当時の金額にして2000円ほどの借金証文を奪われることになります。
現在は今宮神社の駐車場になっている、旧井上四郎次宅跡。
ここをまっすぐ東に進むと、秩父往還と吾野通りの交差点、大正初期に秩父に旅した宮沢賢治の秩父最後の宿となった角屋さん。
いっぽう、薬師堂を東に進み、大宮郷に乗り込んだ先発隊。
この丹党中村氏・墓所の脇を駆け抜けていくわけですが・・・
説明版をアップで。
東に進んで、秩父往還とクロスする地点近くの現在の様子。
ある意味、困民党最大の目標であった、高利貸し・かたなやの跡地は、このFM秩父建物脇の駐車場となっています。
歴史散歩・・・次はやっぱり東京散歩で、行ってみたいところが山のようにあり、さらには大阪散歩、奈良散歩でも予定地が。
ペタンクやっている時間、どんどん少なくなっていきます