坂本竜馬(本来は龍馬だがあえて竜馬)直柔。

 

1853年(嘉永六年)3月17日 竜馬、江戸での剣術修行のために土佐を出発。

 

はっきりとした記録はないが、およそ一か月余りの時間をかけての江戸到着。

 

竜馬は1836年産まれということから、17歳なかばでの旅立ち。

今の時代になおせば、ちょうど高卒での上京、大学入学ということで、青春真っ盛り。

 

土佐藩邸の近くにある、北辰一刀流千葉定吉(千葉周作の実弟)道場に入門。

 

ただし定吉はこのころ江戸にある鳥取藩邸に仕え始めた頃にあたるため、おそらくは竜馬を直接指導したのは、定吉の長男である重太郎だったと思われる?

 

重太郎の妹の数、その年齢順についてはさまざまな説があるが、竜馬が千葉道場入門の時点で既に他家に嫁していた長女の梅尾を筆頭にして、佐那、里幾、幾久、はまの五名とするのが調査した限りでは正しいようだ?

 

次女佐那は、1838年3月産まれということから、16歳になったばかりという計算になるだろうか?

 

もう一人のヒロイン、りょうはこの時13歳?

京都の医師・楢崎将作の長女として産まれている。

当初はかなり経済的にも恵まれ、今風にいえば茶道、華道などとさまざまな塾通いをしていたころ。

りょうの家が貧困に苦しむようになるのは、父将作が安政の大獄で捕らわれ、その後死亡してしまう1858年~1862年の頃から。

当時から炊事ごとは大の苦手だったらしい。

龍馬の死後、土佐の坂本家に入ったりょうだが、竜馬の姉・乙女との不和が生じる原因のひとつになっている。

 

1862年時点での竜馬は、しばし長州に出没したりという動きを繰り返し、そのなかで長姉である千鶴をこの年の暮れに亡くしている。

 

また江戸にいる佐那は次々と申し込まれる縁談話を断り、20代半ばを過ぎて、ひたすら竜馬を待つ日々。

 

史実でいえば、りょうの人生マップは、京都に産まれ、竜馬の死後土佐に行き、1年ほどで飛び出して、東京(江戸)へ。

そこで竜馬繋がりの維新の成功者たちを訪れ、頼ることを重ねるが、うまくいかず、その後は横須賀暮らしで生涯を終えている。

 

寺田屋事件以来、特に親交のあった西郷隆盛が征韓論をめぐって

東京を去ったのも、りょうにとっては大きな痛手と考えられる。

 

一方の佐那は、竜馬の死を知って一度は自害を試みるも定吉らに阻止され、失敗。

江戸三大道場のひとつとして、あれほど盛んであった千葉道場も、本家・分家ともに、維新後は閉鎖。

 

もはや武術の時代ではないという世の流れも大きく影響したろうが、なによりも挙げられるのは、江戸の人口そのものの変化。

このころの江戸における人口激減現象は実に凄まじい。

百万都市といわれた江戸だが、維新後一気に4割ほどの人間が江戸から消えた。

 

そのなかで、千葉家の人々も生きるためにそれぞれの道を探っていくことになる。

 

定吉は隠居、重太郎は北海道開拓使の職に就く。

北海道開拓使といってもいわば駐江戸(東京)詰めのため、定吉と重太郎夫妻たちは深川・富川町に住まいした。

 

佐那のすぐ下の妹・里幾は旧徳島藩士と結婚、その下の幾久も旧関宿藩士と結婚が決まり、末の妹・はまも熊本商人からの結婚話が始まっていた。

 

佐那の行先は、横浜となった。長女である梅尾が横浜暮らし、その縁での横浜行。

横浜と横須賀・・・

史実でいえば、佐那とりょうが一番空間的に接近した時期だ。

 

その後、横浜を引き払い、六郷(神奈川県)で灸治療などで暮らしているうちに定吉の死の知らせをきく。

 

明治14年、重太郎夫妻の京都行に伴い、佐那は初めて京都の地を踏むことになる。

 

佐那の京都暮らしは1年ほど、その後は東京に戻り、学習院の舎監を務めた。

 

佐那の終焉の地となったのは、日光街道近くの千住。住居跡と思われる場所は、街道から一本西にはずれたところ。

佐那の最後の旅としては、この地からの山梨行があげられる。

 

佐那とりょう、二人の人生マップの点と線を結ぶ作業は、なかなか進まない。

 

竜馬死後の早い時期、一度は竜馬の墓守をしようと京都に残ったりょうと、竜馬死すの報せに京に駆けつけた佐那との出会い。

(大河ドラマ「龍馬伝」では、兄の重太郎が京の寺田屋を訪れるという創作がエピソードとしてあったが・・・)

あるいは、二人に共通する勝海舟を介しての、出会い。

または、横浜・横須賀時代における出会い・・・

 

もともと交差することのなかった、二人の人生マップ・・・

 

ただひとつ、はっきりしていることは・・・

りょうについての佐那の感想はないが、佐那に対してのりょうの感想は「わが夫 坂本龍馬」中に残っている。

 

りょうはこのなかで、「千葉周作の娘さの子(原文のまま)は、親に似ぬ淫奔女であったそうです」と語り、「悪女(器量の悪い女)の深情けとやらで、わがままで、腕力が強くて、それで嫉妬深いものですから、みなが逃げてまわっていました」とある。

 

ただし別の史料では、土佐の姉・乙女に送った手紙で竜馬が佐那を紹介している。

 

「この人はおさなというなり、今年26歳になり候、馬によくのり剣もよほど手づよく、長刀も出来、力はなみなみの男子よりつよく、琴をよくひき、14歳の時皆伝いたし申し候。そして絵も描き申し候。こころ映え大丈夫にて男子など及ばず、それにいたりてしずかなる人なり」

 

特に「それにいたりて、しずかなる人なり」という表現にこそ、真実の佐那が存在しているように思われる。